2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
昭和39年、日本の高度経済成長を象徴するイベントとして、東京オリンピックが開催されました。これに合わせて首都・東京に、「日本一」のホテルがオープンしました。今や日本を代表する名門ホテル「ホテルニューオータニ」です。このホテルを創立した人物が、大谷米太郎です。地上17階、地下1階、客室は千室を超えるなど、当時としては日本一の規模を誇りました。
大谷米太郎は、明治14年(1881)7月24日に西礪波郡正得村水落(現在の小矢部水落)で、6人兄弟の長男として生まれました。父・次兵衛は米の集荷業をしていましたが、米相場の失敗により小作人となってしまいます。一家の生計を助けるため大谷は、懸命に両親の農作業を手伝います。
大谷が10歳になった明治24年、同級生に遅れて地元の正得村尋常小学校に入学(※1)します。卒業後は進学せず、夏場は百姓奉公に、冬は酒造場で杜氏の下働きをするという生活を長く続けます。肉体労働などの辛い仕事が続きましたが、大谷にとっては、「三度のメシが食べられる」ことが何よりもの楽しみなことでした。彼が23歳の時、「人がよく、優しかった」父が亡くなります。一家の大黒柱となった大谷は、さらに仕事に励みます。
「おっかさん、このままじゃ、いつまでたっても、おっかさんの老後も楽にできん。わしに考えがあるから、3年間だけひまをくれ」、一生懸命仕事をしても、生活が一向に豊かにならないと考えていた大谷は、母親に上京することを申し出ます。明治44年4月25日、石動の町が祭りで賑やかだったその日、懐に全財産の20銭と握り飯を携えて、意気揚々と東京へ旅立ちました。
東京に出た大谷は、舟から砂糖運びをする人夫となります。「力持ち」だと自負していた彼は、その後角界(相撲界)に入り、「鷲尾嶽」と名乗り、幕下下位にまで出世します。この時、巡業で訪れた室蘭の製鋼工場に深い感動を覚えます。廃業後、小さな酒屋を開き、コツコツと貯めてきたお金を元手に蓄えを増やし、その後鉄鋼業に進出して大谷重工業を設立します。そして経営者としての片鱗を見せはじめた大谷は、経営不振に陥った星製薬やカルケット食品工業などを立て直すなど、日本を代表とする財界人と認められるようになります。
それから時を経た昭和37年、大谷はこの当時、東京の一等地である千代田区紀尾井町に大きな土地を所有していました。これは、旧井口村出身の友人・川南豊作が所有していたもので、もともとは皇族の旧邸宅地でした。大谷は、その頃東京本社の建設を計画していた八幡製鉄(現在の日本製鐵)に、この土地を譲り渡す話を進めていました。ところが東京都から、「オリンピックを開くのにホテルが足りないので、国のためにホテルを建てて欲しい」と熱心に口説かれ、古い知人だったホテルオークラの大倉喜八郎社長に相談を持ちかけます。大倉は、「あそこならいい!ぜひ、やりなさい」と太鼓判を押します。鉄と土地があった大谷は、早速工事に取りかかり、日本一のホテル「ホテルニューオータニ」が完成しました。ホテル経営に深い憧れを感じていた大谷は、「東洋一」のホテルを目指して、当初22階建てにすることを希望しました。しかし、これでは当時の法律に抵触することがわかり、やむなく17階立てに抑えられてしまったというエピソードも残っています。
さて大谷の生家近くには、「小矢部ふるさと博物館」があります。昭和36年に建てられたこの建物は、当初「大谷佛教会館」と名付けられる予定でした。ところが落成式当日、入口に掲げられていた「大谷佛教会館」の銘板の上から、急遽「大谷記念会館」と書いた布が被せられました。「佛教会館」とすると、仏教徒以外は利用するのに抵抗を感じるだろう、と彼が熟慮した結果のことでした。この時、陽の目を見なかった銘板は、現在も会館内にそっと置かれています。
そもそもこの建物が建てられることになったきっかけは、大谷と彼の弟・竹次郎が、「自分の地元に建物を寄付したい」と、浄福寺(小矢部ふるさと博物館横の寺院)住職に相談を持ちかけたことに始まります。この問いかけに住職は、「保育園か託児所が喜ばれるのでは?」と答えます。しかし工事着工の直前、竹次郎は、「地元の人々が集まる場所にしたい」と提案し、保育所と公民館を兼ねた建物に計画が変更されました。ジャングルジムや鉄棒、ブランコなどが置かれていたほか、医務室用のベッドや教卓なども備えられていました。そうした計画の名残として、最近までトイレも幼児用のものが設置されていました。
小矢部市役所の庁舎正面には、大谷のブロンズ像が建っています。この像は、大谷が石動町(現在の小矢部市)に対して、役場庁舎の建設費(※2)を寄付した記念に建てられたものです。昭和37年8月に石動町と砺中町が合併、「小矢部市」が誕生しますが、建設途中の庁舎はそのまま小矢部市役所の庁舎となりました。また石動町から、昭和36年8月に大谷と弟・竹次郎兄弟に、名誉町民第一号の称号が贈られました。ブロンズ像の完成と庁舎の完成は同時となり、除幕式には大谷夫妻も訪れ、盛大な式典が執り行われました。
さて昭和43年5月16日、大谷の身を突然病が襲い、この日の夕方には危篤状態に陥ります。3日後の5月19日に東京の自宅で86年の人生を閉じました。腸腫瘍でした。昭和43年6月の『市報おやべ』には、「5月29日には、市内の各戸に弔旗をかかげ、午後二時にはサイレンを吹鳴し、全市民が黙とうをささげると共に、多数の市民がごめい福を祈り、永遠のお別れをいたしました」と記されています。
同年8月5日、小矢部市の市葬が市立石動小学校にて執り行われ、郷土が生んだ産業界の偉人に別れを告げました。
※1•••学齢満期により、小学校にはわずか3年のみ在籍
※2•••当時の価格で一億二千万円。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。
なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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