2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
日本を代表する航空会社・全日本空輸(全日空)。ここの初代・二代の両社長から三顧の礼をもって迎えられ、五代目社長に就任したのが、砺波市出身の若狭得治です。同社の社長・会長・名誉会長を歴任した若狭は、国内路線の充実をはじめ、世界各国への国際線の開設、ホテル事業などの経営多角化を進めました。昭和51年には「ロッキード事件」で逮捕・起訴されますが、その高潔な人となりは多くの人から頼りにされ、慕われ続けました。
若狭得治は大正3年(1914)11月19日、東礪波郡東野尻村苗加(現在の砺波市苗加)で、父・得太郎と母・はつの長男として生まれました。父は出町の裁判所で書記を務める地区の名士で、性格はまさに明治気質そのものでした。すでに姉が3人いたことから、両親にとっては待ちに待った男の子の誕生でした。そのため若狭は、妹の芳子が生まれるまでは、ずっと母親のそばで寝るほどの「お母さん子」として育ちます。
ほどなく近くの東野尻村尋常小学校(現在の砺波市立南部小学校)に入学した若狭は、3年生の時に苗加神社の春・秋祭りの獅子取り役を務めます。その先役が、後に郵政大臣となる片岡清一で、2人は終生深い親交を結びました。
県立礪波中学校(現在の県立砺波高校)へ進学してからもクラスの人気者で、学校から家が近かったこともあって、彼のもとには多くの学友が集まりました。同級生には山本良勝(元佐藤工業副会長)や綿貫武(トナミ運輸相談役)、沼田益太郎(元沼田製粉社長)や牧野義雄(元大藏官僚)、上田喬弘(元北陸電気工事社長)や斉藤宣良(元高瀬神社権宮司)などがいました。
旧制富山高校(現在の富山大学)への進学を目指して勉強に励んだ若狭でしたが、そんなある日のこと、先輩から「生意気だ!」という理由で、いじめを受けるようになります。それは5回ほど続き、ついに嫌気がさした若狭は、学校を休むようになります。そのために成績が落ち込み、理科系を諦めて文科系へと進路を変え、ようやくの思いで富山高校の文乙に合格を果たします。ところが間もなく腎臓病に冒され、生死をさまよいます。これが彼にとって、病気との長い付き合いの最初でした。しかし持ち前の気力で目覚しい回復をみせ、復学してからは演劇部の活動に取り組むなど、青春を謳歌しました。
その後、東京帝國大学(現在の東京大学)法学部へ進学した若狭は、同級生の奥野誠亮(元文部大臣・法務大臣)や谷村裕(元東京証券取引所理事長)と出会い、勉強や悩み事を相談し合う間柄となりました。またマルクス主義などに関心を深めた彼は、高校時代から続けていた小説や随筆などの創作活動を行い、同人誌を作る日々を送りました。
大学に入って間もなくのこと、若狭は東京府(現在の東京都)の見習いとして内務省(現在の総務省)に入ったばかりの片岡を訪ねます。この時片岡は、「逓信省(戦後に運輸省、現在の国土交通省)に来ないかと言われたのに、内務省を選んでしまった。今から思うと逓信省の方がよかった」と洩らします。この言葉が、将来を漠然と考えていた彼の進路を決めました。
そして昭和13年4月、若狭は逓信省に入省、神田郵便局員として、社会人の第一歩を踏み出します。そのうちに同期入省組の中でも傑出した逸材といわれるようになり、彼のもとへは様々な難問が寄せられます。そして持ち前のバイタリティーで、次々と解決していきます。一方で、もともと下戸だった彼は、「アイスクリームを食べに行こう!」と同期や後輩を誘うなど、風変わりな一面をみせていました。
真珠湾攻撃を控えた昭和16年11月末のこと、若狭は同僚と食事をしていました。しかしそれまでの苛酷な仕事のために疲労が重なっていたことから、彼はその場で倒れますが、無理を圧して出勤します。こうして10日間、徹夜しながら戦略物資の輸送計画を立案していきました。
そして戦後間もなくの昭和22年のある日、当時は不治の病といわれた結核が彼を襲います。精魂尽き果てた彼は、役職の降格を承知の上で、郷里で静養することを望み、故郷・砺波へ戻ります。
昭和23年2月、東海海運局伏木支局長に転任した若狭は、出町から伏木まで汽車に揺られて通勤し、実家での療養を兼ねての勤務となりました。しかし彼の喀血は毎日のように続き、妻・スミ子は困り果てます。その末に彼女は、砺波で開業医をしていた若狭の中学の同級生、杉下尚義の父・尚一に看てもらおうと考えます。当時88歳だった彼は、若狭を一目見るなり、「必ず助かる!目を見ると生気がみなぎっている・・・」と自信たっぷりに言います。杉下は彼を重度の患者だと知りながらも、「助かる」という言葉で励ましたのです。
翌年には支局内に伏木海上保安署(現在の伏木海上保安部)が設置され、彼は初代署長も兼務します。しかしこの当時、職場の風紀・規律が乱れていたことから、「役所は地元の人が創っていくもの。だから役人は清潔でなければならない」と公務員のあり方を正す一幕もありました。
一方、運輸省の職員たちは、「将来の運輸省、日本を支える若狭を助けよう」と、省内でカンパし、高価でなかなか手に入らなかった特効薬・ストレプトマイシンを購入し、彼の元へ届けます。そして若狭は奇跡的な回復を見せます。
「このまま居座り続けて、役所に迷惑はかけられない!」、自宅で療養を続けていた若狭は、退職して養鶏に取り組もうと考え、ヒヨコ300羽を購入します。病み上がりで歩くこともままならなかった彼にとって、杖がわりの竹ぼうきを片手に、ヒヨコを従えて散歩することが唯一の日課となりました。しかし間もなく、そのヒヨコたちにトサカが生えはじめ、騙されて雄鶏を買わされていたことに気付きます。生来優しい性格だった若狭は、自身を親と慕うヒヨコたちを売るのは忍びないと考え、最後の1羽まで大切に面倒を見続けました。それとともに、薬のおかげもあってか、結核も快方に向かっていきました。
養鶏業の失敗から商才がないことを悟った若狭は、健康も回復したことから昭和28年5月に本省に復帰、大臣官房考査室長となりました。この後は神戸港湾局長や灯台部長などを歴任、昭和38年には海運局長に就任します。この時若狭は、当時12社あった海運会社を6社に集約するという大仕事を成し遂げ、「運輸省に若狭あり」とその名を轟かせました。そして昭和40年、全省員から推されて運輸官僚のトップ、運輸事務次官に就任しました。
そんな矢先の昭和41年2月、「さっぽろ雪まつり」の客を乗せた全日本空輸(以下全日空)機が東京湾に墜落します。事故当日、松村謙三とともに日中国交回復の実現に奔走していた社長・岡崎嘉平太は、中国へ出かけて会社を不在にしていました。そんな岡崎に当時の総理大臣・佐藤栄作が激怒、このことをきっかけに航空一社化を推し進めようとします。
彼に引導を渡す役目を命じられた若狭は、岡崎を訪ねて佐藤の意思を伝えます。すると岡崎は、「中国と全日空のどちらを取るかと聞かれれば、迷わず中国を取る」と決然と言い放ちます。その毅然たる態度に決意の強さを感じた若狭は、自身のクビを賭けても岡崎と全日空を守ろうとします。この一件でお互いを認め合うようになった岡崎は将来の社長に若狭をと決意します。この数日後、岡崎は初代社長で当時朝日新聞社長・美土路昌一と共に、「今はまだ小さい会社ですが、あなたの力を必要としています。全日空に来ていただきたい」と懇願します。しかし退官後、2年間は民間会社に勤められない規則があったことから、若狭はやむなくその申し出を断りました。
運輸省を退官した若狭は日本海事財団の会長などを務め、昭和44年に2人の言葉に従い、顧問として全日空に入社、その後は副社長を経て、社長に就任します。
昭和46年7月、岩手県の雫石上空で、千歳発羽田行の全日空機と自衛隊機が空中衝突する事故が発生します。事故とはいえ、乗客・乗員が全員死亡する事態に、若狭は「腸が煮えくり返るような・・・」と防衛庁を強く批判しました。
それからしばらくの後、この時に殉職した機長の長男の結婚式に、全日空からは若狭一人が招かれます。祝辞を述べようとマイクの前に立った途端、どっと涙が溢れた若狭は、「あの事故は、自分の一生で最も断腸の出来事・・・。これからもボクを父親だと思って、どんどん相談に来てほしい」と話すと、手元のハンカチを2枚とも涙で濡らし、普段の様子からは、想像できないような人情味のある一面をのぞかせました。
昭和51年2月、日本の政財界を揺るがす「ロッキード事件」が発覚し、若狭は同年7月、東京地検に逮捕されます。この時彼は社長を辞めるつもりでしたが、質素で潔癖な人となりを知る相談役の岡崎をはじめ、社外役員や組合の委員長などから慰留されます。そして多くの社員たちも、「社長を信じています。辞めないで下さい!」と泣きながら懇願しました。そして同年12月には代表権のない会長に、平成3年には名誉会長となった若狭は、名実共に「全日空の中興の祖」となりました。
このように中央で華々しい活躍をみせた若狭でしたが、一方で故郷・砺波を生涯愛し続けました。テレビや新聞で砺波や富山に関する話題が紹介されていると、高岡出身の妻・スミ子と食い入るように眺めていました。また無類のチューリップ好きだった彼は、原産地であるトルコ共和国・ヤロバ市と砺波市との姉妹友好都市締結の際にも、裏方となって奔走しました。他には北陸自動車道の路線決定や富山空港のジェット化、B&G砺波海洋センターの誘致、安川地内の庄東センターの建設、そして平成11年2月に完成した富山全日空ホテルの建設にも力を尽くしました。
さて多趣味で知られた若狭は、囲碁やゴルフをはじめ、百貨店でのウインドーショッピングやスーパーでの買い物をとても楽しみにしていました。甘党だった彼は果物好きで、とくにスイカやパパイヤを買いに、よく近所のスーパーへ出かけていました。
晩年、体調を崩しがちだった若狭は、平成17年12月27日に91年の生涯を閉じます。翌年2月1日、会社主催の「お別れの会」が東京全日空ホテルで催され、政治家や経済団体の代表など約3500人が参列、あたたかい人柄で慕われた若狭のありし日を偲びました。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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