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【商売に一途であり続けた男】谷崎吉太郎

2025.11.01

金沢市郊外にある、料理旅館・滝亭。これは埴生八幡宮のお告げにより見出された霊泉とされています。このお告げを受けたとされるのが、裸一貫から身を興し、北陸有数の旅館経営者にまで登りつめた谷崎吉太郎です。谷崎は、「タネ銭哲学」を信じて、様々な商売に取り組み、北陸を代表する旅館王としてその名を残しました。

 

農家を訪ねて「まいどさん!」

谷崎吉太郎は明治36年(1903)4月23日、西礪波郡石動町福町(現在の小矢部市東福町)で、農家・谷崎竹次郎の長男として生まれました。小さい頃から、近くを流れる小矢部川を眺めて育った彼は、穀物や物資を満載して往来する商人たちを見るうちに、独立心旺盛な心が芽生えます。そしていつしか、商人を夢見るようになっていました。

大正4年、谷崎が12歳の時、正得村や埴生地区の農家を一軒一軒訪ねて、スゲくずを集めることを思い立ちます。アンコロ餅をくるむ、笹の皮を縛るヒモ、つまり「寄りこ」として利用できないかと考え、これを津幡の餅屋へ納めました。これが彼の商売人としての出発点でした。「玄関で、『まいどさんです』と声を掛けることが、恥ずかしくてならなかった」、後年、谷崎はこう振り返っています。決して口が上手いとは言えなかった谷崎を支えたのは、このスゲくずがお金に換わる瞬間に味わった感激でした。また彼は近くの神社祭に出向いて、夏祭りには皮を剥いたリンゴや梨を、氷の上に乗せて売るなどして、周囲からはとても喜ばれました。2年後には魚の行商人に転身、19歳まで出町・戸出・福岡・立野の町を、毎日鉄輪の荷車を引き続けました。
 

全国を股にかけて

当時、石動には「くず米」市場がありました。くず米とは、火災や洪水の被害に遭った米のことで、芯(米芯)はせんべいや焼酎に使われていました。谷崎はこれらを集めて販売しようと考え、魚行商で得た資金をもとに雑穀屋を開きます。作柄が悪いと聞けば、すぐに現地へ出かけて情報を収集し、10年後にはその取扱高は全国一となっていました。国鉄石動駅には、谷崎の扱う雑穀が山積みとなり、到着する貨物の半分を占めるほどでした。昭和10年に国道8号線が開通、谷崎は自動車輸送の将来性を見越し、小矢部川そばに広い土地を購入し、雑穀精製工場と倉庫を建てました。

昭和15年、まさに飛ぶ鳥落とす勢いだった谷崎を、小麦・米・砂糖の配給制と物価統制令という波が襲います。自由にくず米の売買ができなくなったのです。「余った米をどうしよう・・・」、思案に暮れた谷崎は、味噌・醤油の製造事業に転換します。石動のほか戸出・高岡・津幡にあった倉庫は醸造工場に改修され、これらは軍需工場に指定されました。そして終戦までには城端の醤油会社と木工所、そして静岡の醸造会社、石川での漁船などを買収し、大きなピンチを大きなチャンスに変えました。
 

北陸三県を代表する旅館王に

終戦後谷崎は、新たな事業として観光の分野へ進出します。たまたま売りに出されていた山代温泉「山代屋」を買収したのを手始めに、昭和22年には金沢市にあった映画館を買収するなど、まさに独立独歩で事業を拡大していきました。その後は、九州産のサツマイモを使ったイモ焼酎『大洋晴』を製造・販売するなど、時流を的確につかみ、商売を拡大していきました。

昭和29年に山代屋を売却した谷崎は、それを元手に片山津にあった「富山館」を買収します。翌年にはその隣に「片山津第一観光ホテル」を建設、鉄筋10階建て・650人収容という巨大なホテルの誕生でした。そして昭和49年には、和倉温泉に「和倉第一観光ホテル」をオープンし、念願の和倉温泉への進出を果たします。

このように多くの事業を手がけた谷崎は、一度やると決めれば納得するまで徹底的に調べ上げました。また将来性や採算性に疑問を抱いた時には、いともあっさり手を引くなど、失敗した経験をうまく商売に生かしました。また同じ小矢部出身で、後にホテルニューオータニを創業する大谷米太郎に対しては、憧れと畏敬の念を抱いていました。
 

子や孫に夢を託して

生涯様々な事業を手掛けた谷崎でしたが、これらは自分の兄弟や一男五女の子どもたちに譲り渡し、事業の継続・発展の夢を託します。小矢部にある大洋化学工業や昭和肥料、石動地所や城端醤油、滝亭、和倉温泉「のと楽」などがそうです。

平成3年10月頃から体調を崩した谷崎は、入院生活を送るようになります。石動の町を練り歩く曳山や獅子舞が好きだった彼は、病室で「曳山と桜が見られるといいなぁ」とつぶやくこともあったといいます。その願いが叶って、翌平成4年4月、小矢部の城山公園に咲く満開の桜を見て安心したのか、それから間もなくの4月27日に89年の生涯を閉じました。

さて谷崎は、枕元にメモ帳を常置し、寝床で思いついたことを書き込んでいました。眠る前に、翌日の仕事の段取りを考えた彼は、夜中に何度も起きては筆をとりました。これはまさに商人・谷崎のマニュアルとなりました。

亡くなる数日前、谷崎は長男・吉揮に、「社員や地元の協力が得られたからこそ、小さいながらも面白い事業を経験でき、幸せな人生だった・・・」と自身の生涯を振り返っていました。
 



この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。
なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部

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