2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
茶の湯を行うため、茶席・勝手・水屋などを備えた小庵や茶室、また茶室風の建築様式のことを指す「数寄屋」。きっとみなさんもよく耳にされる言葉だと思います。この数寄屋大工の棟梁として活躍した人物に、小矢部市出身の中村外二がいました。数寄屋建築の継承と発展に尽くした中村は、大工として初めて「日本建築学会文化賞」を受賞するなど、「数寄匠」としてその名を残しました。
中村外二は明治39年(1906)12月27日、西礪波郡石動町鍛冶町(現在の小矢部市新富町)で、桶職人だった父・栄太郎と母・つゑの三男として生まれました。母の実家は代々大工の棟梁をつとめ、母の兄・水田常次郎は石動ではよく知られた棟梁でした。外二の兄・友吉は水田の元で大工修行を積んでいましたが、26歳の時に大病を患って他界します。友吉が遺した道具を見て偲びなく思った父は、外二に一言「大工になれ」と言い渡し、13歳で水田に弟子入りさせます。
この頃、大きな住宅や料亭などの建築を手掛けていた水田は、常に7〜8人の弟子を抱えていました。最初の半年は、穴掘りばかりの修業でしたが、少しでも仕事の手法を身につけようと、中村は先輩の仕事を見よう見真似で覚えます。
そして22歳になった時、中村は「外へ出て、自分の腕を試したい」と思い、独立を決意します。水田の元を離れた彼は、手間賃の多少に関わらず、いい仕事があればどこへでも出かける、つまり手間請け大工としての生活を始めます。そのうちに、隣町の福岡町出身の貴族院議員・高広次平の本宅の建設に携わるようになりました。
そもそも高広の本宅を建てることになったのは、清水組(現在の清水建設)と関わりを持ったことがきっかけでした。中村はこの清水組を通じて、京都の木屋町にある料理旅館の新築工事に携わります。ここでも彼は熱心な働きぶりを見せ、旅館の女将からその腕を見込まれて、以降は京都に滞在することになります。そして京都電灯(現在の関西電力)社長や京都商工会議所会頭を歴任した田中博の邸宅を手掛けたほか、比叡山ホテルの建設などに従事しました。
しかし世の中は戦時体制となり、昭和20年6月には中村へ召集令状が届きます。やむなく仕事を中断しますが、幸運にもわずか2ヶ月の徴兵期間で終戦を迎えた彼は、昭和20年9月に復員することになりました。この徴兵生活を経験して、「ひとつひとつ、心をこめた建物を造り、残していきたい」という思いを抱くようになります。
以後、中村は昭和28年から裏千家の仕事を受けるようになりますが、これは彼にとっては大きな転機となり、以後は数多くの茶室を手掛けます。そして昭和45年に開催された日本万国博覧会では、「日本庭園」内の茶室建設という大役を担いました。
中村の生涯の中で注目されることは、松下電器産業の創業者・松下幸之助から多くの仕事を任されたことです。松下電器の本社会長室にある茶室は中村の手によるもので、松下は悩みにぶつかった時、よくここで茶を点てたといいます。その他松下の自宅にある茶室や、生家にあった長屋門の移築、研修施設・光雲荘の改築工事なども、中村の腕を見込んで依頼されたものでした。
そんな松下から、中村のもとに伊勢神宮の茶室を作ってほしいという要請が届きます。「今度は三百年もつものをやりたい」と希望する松下の言葉を受け、中村は大工のプライドにかけてこの仕事に取り組みます。
また中村は、画家・東山魁夷や鳥海青児、作家の遠藤周作、俳優・市川右太衛門や哲学者・梅原猛らの邸宅建設のほか、海外でもニューヨークのロックフェラー邸、インドの日本大使館庭園内茶室、ロンドンのジョン・レノン邸日本間などの建築に携わります。さらに、東京芸術大学教授・吉村順三や田中青磁、また数多くの茶室を手掛けた縁から、裏千家家元・千宗室や砺波出身の日本画家・下保昭とは、仕事を通じて終生親交を結びました。
平成9年5月17日、中村はホンモノの「数寄屋建築」を追い続けた90年の生涯を閉じます。自己紹介の際には、必ず「大工の中村です」と言うなど、大工仕事一筋の人生でした。そして彼は息子・義明に、「大工は60代から一人前、80歳になっても毎日勉強だ」と、口癖のように語っていました。
こうした中村の趣味といえば、美術品や建築雑誌などを見ることで、これは「家は器である」という信念に基づくものでした。
「夏の暑い夜、(中村は)庭の大きな石の上に大の字になって月を眺めていました。『月がきれいだから一緒に見ないか?』と誘われましたが、朝が早い私は早々に引き上げました。なんであの時ゆっくりと月を眺めなかったのだろうと、今になっては悔やまれます」、彼が他界した時、中村の妻・はな校はこうつぶやいたといいます。暑がりだった中村の唯一落ち着く場所が、庭にある大きな石の上でした。
さて故郷・富山には、中村の作品がいくつか残されています。射水市の新湊中央文化会館や、県水墨美術館内の茶室「墨光庵」、そして母校・小矢部市立石動中学校内にある日本庭園などがそうです。彼が込めた大工魂は、今も脈々と流れ続けています。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。
なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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