2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
日本で有数の法律専門書を出版する青林書院。青林書院を一代で築き上げ、法曹界・出版界の発展に尽くしたのが、逸見俊吾です。逸見は会社存続の危機に直面しながらも、持ち前のバイタリティーでそれを克服、法の「魂」の継承につとめました。また故郷の文化発展を願った逸見は、昭和59年に小矢部市から文化功労者としての表彰を受け、図書館に本を寄贈するなど、故郷・石動をこよなく愛し続けました。
逸見俊吾は大正12年(1923)3月27日、西礪波郡石動町紺屋町(現在の小矢部市心和町)の、真宗大谷派・等源寺の三男として生まれました。
小さい時から両親の厳しいしつけのもとで育った彼は、あまりの厳しさに腹を立て、よく寺の前庭に敷き詰められた砂利をまくし上げるなど、両親はその腕白ぶりに手を焼いていました。
そんな逸見でしたが、一方で立身出世を遂げた安田善次郎らに憧れました。一念発起した彼は11歳の時、ちょうど大寒の早朝、御堂に置いてあった経文十数巻を持ち出し、それを背負って国鉄倶利伽羅駅まで向かいます。そして金沢に降り立って経文を売り、それを元手にして大阪へ旅立ちます。
大阪に着いた逸見は、門徒の古着屋の世話を受けますが、朝4時から夜10時まで、厳しい労働と激しい空腹に耐える日々を送ります。こうした生活を続けているうちに、「社会で大成するには学問が必要だ」と感じるようになります。そのうち偶然にも寺院関係者に見つかり、実家に連れ戻された逸見を前に父は大いに激怒、同じ石動にいた親戚に身を預けられることになりました。
父の怒りが解け、1年ぶりに生家に戻った逸見は、石動小学校高等科に進学し、卒業後は父に内緒で金沢中学2年の編入試験を受け、見事合格します。逸見はただ父に気に入られようと、帰宅後すぐ法衣に着替え、約2時間の檀家回りを続けました。
そして5年生の時、再び進学への強い希望を抱くようになった逸見は、尊敬する松村謙三の母校・早稲田大学に進学します。学生生活を続けているうちに、生活費や小遣いに困った彼は、小さい時から好きだった音楽にまつわるアルバイトを思いつきます。たまたま下宿先が、洋舞家・高田せい子の家だったことから、そこに出入りしていた歌手や芸能人らと知り合う機会にも恵まれます。逸見は学生の身ながら芸能人を動員し、石動や高岡などで興行活動を行い、多くの人々に勇気と感動を与えました。
昭和18年に召集され、終戦で復員した逸見は、昭和20年9月に再び早稲田へ編入、富山・石川両県出身で東京の大学在校生と地元の学生で、加越能青年文化連盟を結成し、初代委員長に就任します。そして昭和20年12月、著名作家を富山・高岡・金沢へ招いて講演会を開催し、以後は多数の学者を招き、延べ10万人を動員しました。
こうした逸見の活動は、金沢財界のリーダーだった大和百貨店の社長・井村徳二の目に留まります。井村は彼に会うなり、「資金を出すから東京で好きな事業をしないか」と持ち掛けます。その話を受け、尊敬してやまない学習院院長・安倍能成を訪ねます。安倍は、「君は有名な学者を多数知っているのだから、出版をやってみれば」と助言、安倍から岩波書店の社長を紹介された逸見は、約3ヶ月間、出版の初歩から手ほどきを受けます。そして同23年1月に井村が社長、逸見は主幹となり勁草書房が設立されました。その後は、大和の子会社・大和印刷で営業部門を担当したほか、松村に乞われて1年間、彼の秘書をつとめました。
昭和28年の春頃、柴田書店社長・柴田良太から誘いを受けた逸見は、両人を代表者とする青林書院を創立します。多くの知名な学者と交流があった彼は、『法律学演習講座』全18巻をはじめ、1年間で30点ほどの専門書を出版し、順調な歩みを続けます。そして3年後には逸見が代表取締役社長となり、法律経済書肆(書店)として、その名は広く知られるようになりました。
ところが一寸した誘惑に引っ掛かった彼は、会社倒産の憂き目を体験することになります。このころ、ある出版社がソノシートで大当たりしたことから、多くの取次屋や他の業者から、「蔵がいくつも建つほど儲かるから、やってみたらどうか」という声が頻々と掛かり、その話に乗せられてしまったのです。芸能界に知り合いが多かった彼は歌曲、童謡、歌謡曲などをまとめた『日本音楽全集』全20巻を発刊。ところが著者の信用を失い、1億3千万円の負債を背負った結果、昭和36年9月、ついに倒産してしまいます。
この時、破産に追い込むつもりだった国税庁の職員は、書棚に並ぶ青林書院刊行の本をじっとみつめ、「これほど社会に有用な書物を出していた本屋をつぶすのはもったいない。国税庁には頭金を払って、後は月賦で返すように」という恩情ある言葉を掛けます。その上、経理面で一切私腹していないことが判然、さらに債権者代表の強力なアピールによって、3ヶ月後には青林書院新社として再建しました。多額の負債返還に努力した逸見は、昭和39年に再び代表取締役社長に戻ります。
こうした中でも郷里を愛し続けた逸見は、石動図書館に「逸見文庫」を作り、自社の刊行書はもちろん、他社本も寄贈しました。
時を経て平成13年3月、兄の葬儀のために石動へ帰郷した彼は、一言「懐かしいのう」とポツリと洩らしたといいます。それから間もなく彼は体調を崩し、入院生活を送るようになります。食が細る中、自分の娘のように可愛がっていた、女優の室井滋(妻・久美の親戚)がお見舞いの品として持ってきたプリンを食します。これが最後に口にしたものとなりました。そして翌平成14年1月18日、自身が葬儀委員長を頼んでいた綿貫民輔の帰りを待つかのように、 78年の生涯を終えました。学生時代から親友だった綿貫は、「好きなことを十分にやったから、いい顔をしているなぁ」と逸見に語り掛け、その死を悼みました。 現在、長男・慎一が青林書院を後継し、着実に順調な歩みを続けています。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。
なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.02.28
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部