2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
平成10年に開かれた長野冬季オリンピック大会では、日本中がノーマルヒル(※1)の代表選手に熱い声援を送りました。その中の一人・葛西紀明選手が当時所属していた会社が、北海道に本社を置く建設会社・地崎工業(当時)です。地崎工業(現在の岩田建設)は、北海道で最老舗かつ最大手の建設会社として知られ、新千歳空港の建設など大きなプロジェクトなどを手掛けてきました。この地崎工業を創業した人物が、地崎宇三郎です。
地崎宇三郎は、明治2年(1899)10月17日に礪波郡石動町福町(現在の小矢部西福町)で、雑貨商を営む地崎嘉助の長男として生まれました。石動は江戸時代から、砺波地方の米の集積地として栄え、中でも福町は北陸街道と交わる場所であり、まさに交通の要所でした。
地崎が生まれた頃、父の嘉助は農業を営む傍らで、米穀・雑貨などを商っていました。そもそも地崎という姓は、以前嘉助が住んでいた地崎村(現在の小矢部市地崎)に由来しています。嘉助自身は源義仲の家来として仕えた家系の岡田家からの養子でした。こうした縁もあって彼は、昭和5年に地崎村の村社八幡宮に大鳥居を寄進しています。
幼いころの地崎は読み書きが不得手でした。地崎は申義小学校(現在の小矢部市立石動小学校)を一年で中退、その後近所の寺子屋で学びながら、貧しい家計を支えていました。
地崎が18歳の時、それまで十年に及ぶ闘病生活を続けていた父が死去、商売はもちろん農業経営もままならない状況となります。母1人弟4人の生活を一身に背負わされることになった地崎は、家計を助けるために新天地を求めて故郷を後にします。明治24年2月、地崎少年が21歳の時のことでした。川舟に一俵の米を積んで乗りこみ、現金40円を懐にしての静かな出発でした。
小矢部川を下り大阪に到着した地崎は、「商売人になろう!」と奮起します。手持ちのお金を元手にして一ヶ月ほど米相場を張りましたが、ふとした時に北海道への移住を募る新聞記事を目にします。未知なる土地に自分の可能性を賭けた地崎は、約一ヶ月で大阪を離れ、東京行きの列車に飛び乗りました。そして何度か乗り継いだ末に到着したのが、東北の一関駅(岩手県一関市)でした。地崎はここから徒歩で一路北海道を目指します。
さて北海道までの道中で、地崎は気田和三郎という人物に出会います。彼は青森出身で、地崎と同じ志を抱いており、のちに地崎が独立するまで共に汗を流した仲でした。2人は青森から汽船で函館へ向かいますが、地崎はここで持金を使い果たしてしまいます。なんとか北海道に降り立つことのできた地崎は、「ここからは歩いて夕張へ向かう」と陸路で夕張を目指そうとしました。しかし険しい山道が続くことから、気田はここからの汽船代を立て替えると申し出ます。自分より4歳年下で、はるばる富山から出てきた地崎に対して気田は同情し、汽船を乗り継いでようやく室蘭に到着しました。お金も体力も無い2人でしたが、土木工事(室蘭線の建設)を担っていた今村組(苫小牧)に入って働き始めます。地崎宇三郎が故郷をあとにして、わずか二ヶ月目のことでした。
北海道に到着して半年後の10月17日、地崎は今村組から独立して「地崎組」を創立しました。とはいうものの今村組自体が下請業社だったこともあり、独立したとはいえ実際は孫請会社でした。地崎自身ハンディキャップがありましたが、それをバネにして誠実に仕事をこなします。そして施工予定日より一日でも早く完成させるように心掛けたほか、支払いについても必ず5日以内に完納するなど、元請業者の信用も得ていきます。
この頃、地崎が最も信頼を寄せていたのが、大倉財閥を築き上げた大倉喜八郎でした。大倉は明治20年に現在の大成建設の前身、日本土木会社を創立しています。この大倉らの後押しもあって、地崎組は鉄道建設などの大事業を次々と受注し、北海道を代表する建設会社にのし上がっていきました。
自らが貧しい境遇だった地崎は、「公共の福祉」にも強い関心を示していました。第一次世界大戦後の反動不況が押し寄せた大正末期、街には多くの失業者があふれました。地崎の自宅前にも、多くの浮浪者が集まっていました。そんな窮状を見かねた地崎は、握り飯2個と30銭の現金を手渡すなど、彼らに救いの手を差し伸べました。
こうしたことを半年以上も続けた地崎に対し、社員から「いい加減にやめたらどうか」と進言されます。しかし地崎は「自分が今日あるのも、このような底辺にある人々の犠牲によるものだ。いまの自分にできることは、この人たちに還元することくらいしかない」と一括したといいます。
まさに怒涛の人生だった地崎宇三郎は、昭和11年4月23日に62歳で亡くなりました。生前彼は、「医学の発展には献体提供者が不可欠」との遺言を残し、自分の遺体を北海道帝国大学に提供することを申し出ていました。
初代地崎宇三郎亡き後、彼の長男で38歳だった春次が(2代目)宇三郎を襲名しました。2代目は戦後に民主党(※2)の幹事長に推されるなど、北海道の政界の重鎮として活躍しました。家財を全部売り払って議員活動を続けた2代目は、まさに井戸兵政治家(※3)として、地元民に愛されました。
この2代目の後を継いで地崎組の代表取締役に就任したのが、(3代目)宇三郎(旧名・九一)です。彼は地崎組創設以来の悲願である東京進出を目指します。また2代目に当たる父の遺志を継いで、昭和38年に衆議院選挙に出馬(自由民主党公認)、トップ当選を果たします。そして昭和54年には、第2次大平正芳内閣の運輸大臣に就任、清廉・潔白な政治家として活躍しました。自身が身体障がい者だったこともあり、福祉事業に精通していることで知られ、数々の功績を残しました。
昭和48年4月、長年親しまれた社名である地崎組は、地崎工業に商号変更しました。そして平成19年4月には岩田建設(本社・札幌市)と合併し、岩田地崎建設となりました。そして北海道唯一の、全国ネットの建設会社として、北海道を代表する企業となっています。
ところで地崎は、自分が育った郷里の石動に対して多額の寄付を惜しみませんでした。母親の喜寿の祝いとして金壱千年を石動町に寄付したほか、昭和4年には自身の還暦記念として金貮千円を町の教育基金として寄付し、大変感謝されています。
※1•••スキーのジャンプ競技種目。基準飛距離が70メートルの台を使用する。
※2•••昭和22年に旧日本進歩党を中核に結成され、昭和29年に自由党(当時)の一部と合同。翌年に保守合同し、自由民主党となる。
※3•••政治家が選挙に自己財産をつぎ込んで貧しくなること。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。
なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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