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【女性の美を求め続けた美容師】田中きみ

2025.11.01


大正から昭和初期にかけて、女性の服装やスタイルは大きな変化を遂げました。この頃から美容師として活躍し、富山県の美容界の発展に尽くしたのが、田中きみです。常に女性の美を追求し続けた田中は、美容師たちから「お母さん」と慕われ、「富山県美容界の母」としてその名を残しました。

 

両親に楽をさせたい!

田中きみは、明治34年(1901)11月3日、西礪波郡若林村下中(現在の小矢部市下中)で、父・津田源作・母・かのの3人姉妹の長女として生まれました。18人が暮らす大所帯を切り盛りする母を見て育ったきみは、「母に楽をさせたい!」と思い続けていました。

大正6年、15歳のきみは富山市の柴田髪結店へ修行に入ります。人一倍熱心に働いた彼女は、1年半でひと通りの仕事をこなすまで成長します。「思い立ったらすぐ行動」というきみは、翌年7月、花柳界(※1)でトップクラスの芸者が集まる高岡・桐木町で独立し、美容院を開業します。10分から15分で日本髪を結い上げるなど、彼女の仕事は「早く・丁寧」だと好評で、当時120人いた芸妓衆のうち、80人がひいき客になりました。そして彼女らからは「おっしょーさん」と慕われたきみは、寝る間が無いほどの多忙な日々を送ります。当時の16歳といえば、家事手伝いや裁縫など、花嫁修行に励むのが一般的な時代でしたが、彼女は持ち前の行動力で、美容技術の向上を目指します。そして翌年には、紋付絵師(※2)だった田中直次郎と結婚、4人の子宝に恵まれました。
 

「女性」の憧れ、パーマネント

田中が美容院を開いた頃、島田(※3)、丸髷、束髪(※4)からパーマへと、美容を取り巻く環境は、日々変化を続けていました。彼女のひいき客である芸妓衆は、よく東京へ出かけていたため、流行にはとても敏感でした。これに遅れを取らないようにと、新しい美容技術を学ぶべく、休みを利用して、日本の美容界の草分け的な存在だった東京の山野愛子美容室へ通いました。もちろん手取り足取り指導してもらえるわけではなく、山野やその弟子たちの技術を見よう見まねで学んでいきました。修行の合間には、山野の子どもの相手や部屋の掃除をするなど、身の回りの世話をすることも度々でした。

昭和13年、洋髪が流行り出したことから、田中はパーマネント屋に切り替えることを決断します。もちろん富山県では初めての店で、それは北陸随一の規模を誇りました。パーマはモダンカール(※5)などから受け入れられ、県内外から多くの女性客が押し寄せました。

しかし時代は戦争の道を歩みます。警察からは「パーマはやめろ!敵国の髪型など、とんでもない!」と執拗に圧力がかかるようになります。男勝りの彼女は強く抵抗を見せたため、一時的に営業停止にまで追い込まれます。しかし彼女は、「女性が美しくなろうとする心までは失いたくない」と、美容への信念をずっと守り通しました。
 

通信教育の道を開く

戦後も田中は貧困に負けず、女性の美を追求するべく、美容院を続けました。この姿勢を評価された彼女は、戦後間も無く開かれた「全国美容コンクール」で審査員に選ばれました。自身が技術を学んだ山野をはじめ、並みいる審査員と席を並べ、緊張した彼女は、我が子を思い浮かべ、勇気を奮い立たせました。

この頃から田中は、県美容界のリーダーとしての活躍をみせはじめます。保健所から美容組合設立にこぎつけ、田中は初代組合長に選ばれました。

翌昭和25年には、弟子入りして力をつけて店を持つという「徒弟制度」がなくなり、美容師になるためには美容学校等で国家資格を取得することが必要になりました。ところが地方の組合が学校を持つということは資金的に難しく、また個人で中央の学校へ行く場合にも大変な負担を伴いました。そこで田中は、通信教育でも国家試験を取得できるようにと、厚生省(現在の厚生労働省)や地元の代議士に法案通過を強く働き掛けます。そして彼女らの思いが叶って法案が通過、このニュースをラジオで聞いていた病身の夫・直次郎と、手を取り合って喜びました。こうした仕事一本にかける彼女を心から理解し、支え続けた直次郎は、それから半年後に「美容のために尽くしなさい」と言い遺し、他界します。その後、昭和32年に富山県美容業環境衛生同業組合連合会が設立され、田中はこちらでも初代理事長となり、業界の発展につとめました。
 

旅館経営と教え子たちの奮闘

昭和30年代に入り、田中はホテルの経営を始めました。美容院は子どもたちに任せ、富山大学にほとんど近い神通川河畔に「神通荘」をオープン、生涯経営者兼女将を続けました。話した人を一瞬のうちにファンにしてしまう人柄の彼女は、いつでもどんな立場の人にも物怖じせず平等、真心を込めて接しました。その結果、神通荘は富山を代表する旅館となりました。

平成3年9月4日のこと、田中は神通荘の一室で化粧をしていました。その最中、突然脳血管症で倒れ、そのまま息を引き取ります。90年の大往生でした。葬儀には政財界の関係者など、生前彼女を慕う多くの人が訪れ、その別れを惜しみました。彼女と特に親交が深かった前富山知事の中沖豊は安らかな顔を見て、「お母さん、仏のような顔でニコニコしているね」とポツリ洩らしました。

「人には各々『お金』と『価値』が付いている。その人の持つ価値は、必ずお金として跳ね返ってくる」。これは自らで自分の価値を高めてほしいという、田中がいつも唱えていた経営哲学でした。

現在田中美容院は富山駅前に本店、ほか市内に2店舗を有します。田中が教えた弟子たちは200人以上を数えますが、彼女たちは全国各地で活躍し、現在も彼女がずっと持ち続けていた「女性の美」を追求しています。
 


※1•••芸者や遊女の社会。
※2•••家紋をつけた礼装用の和服。
※3•••日本髪の代表的な髪型。前髪と日本髪の後方にはみ出した部分、つまり髱を突き立たせて、まげを前後に長く大きく結ったもの。
※4•••西洋の髪型をヒントに考案されたもので、自分で結うことができると、明治時代に大流行した。
※5•••当世風の女性。大正末期から昭和初期にかけての流行語。



この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。
なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部