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【剣の道を極め続けた男】飯原藤一

2025.11.01

昭和25年10月、「第1回富山県剣道大会」が開催されました。当時、連合国軍総司令部(GHQ)が武道を禁止する中、「なんとしても剣道を復活させたい!」と願い続け、富山県における剣道復活のために尽力したのが、飯原藤一です。飯原は、富山県剣道連盟副会長や富山県警察本部名誉師範をつとめるなど、まさに剣道一筋の生涯を送りました。

 

三度の飯よりも剣道好きに

飯原藤一は、明治33年(1900)4月16日、西礪波郡津沢町新西(現在の小矢部市新西)で米屋を営む、飯原栄次郎の四男として生まれました。幼い頃から、毎日、竹刀に似せた棒で木を叩くなどして剣道の練習に励み、その木皮の表面は剥けるほどだったといいます。

大正2年4月に県立礪波中学校(現在の県立砺波高校)に入学した彼は、憧れの剣道部に入部します。飯原は、顧問・藤井鶴太郎から剣の教えを学ぶべく、毎日欠かさず道場へ通って稽古に励みました。後に藤井は、「太刀先が鋭く、技も縦横に出るし、進退も自由で常に攻勢をとり、見ていて歯切れよいものだった」とその稽古ぶりを振り返っています。

大正4年2月、飯原は県下四中学校連合武道大会に主将として参加し、団体優勝を果たします。そして翌大正5年9月に行われた、小関教導範士表彰演武大会で飯原は優勝し、日本刀一振を授与されます。校長はこの活躍を大いに喜び、盛大な祝賀会を催しています。

さて、現在も砺波高校で歌い継がれている応援歌は、大正7年2月に開催された県下四中学校連合大会に合わせて柔道部の七山四郎と彼とが、教諭の島平三に作詞を依頼して作られました。この歌には、二人の武道への思いが込められています。
 

「さすが剣士だ!隙がない!!」

大正7年4月、飯原は本格的に剣道の道を極めるべく、京都武徳専門学校(現在閉校)に進学します。翌大正8年1月には京都伏見警察署で開催された稽古初めに顔を見せた彼は、7人倒すという快挙を成し遂げ、その褒美として短刀一振を授与されています。

実家へ暑中帰省した時にも、相変らず剣道の練習に励んだ飯原は、同級生を連れ出して母校・礪波中学校の武道場へ出かけるという日々を送りました。

そんなある日のこと、縁先でお茶を飲んでいた飯原のもとに、近所の住人が訪ねてきます。その住人は家に入るなり、手に持っていた天秤棒で突然、飯原に殴りかかります。すかさず彼は近くの盆を頭上にかざし、この棒を見事に払いのけます。このすばやい動きに驚いた住人は、「さすが剣士だ!隙がない!」と洩らし、彼の将来に近所の誰もが期待を寄せました。

さてこの頃、飯原に縁談の話が持ち上がります。相手は、当時出町小学校の教員だった政子でした。ある日、小学校の遊動円木で遊んでいた飯原のそばを、将来の伴侶・政子が通り過ぎた際、「この人と結婚するんだな・・・」と、喜びのあまり飯原は円木から落下し、危うく大ケガをしそうになったといいます。
 

幕末の士を生んだ地へ

大正11年4月、京都武徳専門学校を卒業した飯原は、剣道の腕前と実直な人柄を買われ、明治維新の功労地である鹿児島県立川内中学校(現在の県立川内高校)、山口県立山口中学校(現在の県立山口高校)へ剣道師範として招かれます。

そして3年後に故郷・県立神通中学校(現在の県立富山中部高校)へ赴任した飯原は、16年間の在職中に、剣道部が数本の優勝旗を常に保持し続けるまでに育て上げます。併せて、官立富山薬学専門学校(現在の富山大学医学部)、歩兵三十五連隊、旧制富山高等学校(現在の富山大学)等の師範も兼務し、幾多の人材を世に送り出しました。

終戦後、学校剣道を指導することが禁止され、武道教師の多くは体育科教師へ転向します。「剣道しか見向きもしなかった私が、この歳で体操教官が務まるだろうか・・・」、45歳の飯原は戸惑います。しかし生活のためにやむを得ないと意を決し、東京へ研修に出かけます。この時、経済的に苦しかった飯原は、苦労の末に入手した名刀「関の孫六」を手放しますが、一抹の寂しさを感じずにはいられませんでした。
 

真の「剣聖」と言われて

再び剣道が復活する日を待ち望んでいた飯原は、昭和25年に開催された「第1回富山県剣道大会」を通じて、剣道復活への道筋をつけました。こうした功績を認められた彼は、昭和27年10月に発足した、富山県剣道連盟の会長に推挙されます。しかし彼は、「自分はその器にあらず」と固辞し、副会長として裏方に徹したほか、全日本剣道連盟発足時には、県選出評議員を4年つとめました。また昭和33年10月に開催された富山国体では、剣道会場を庄川町へ誘致するべく奔走しました。

昭和34年11月15日、「飯原先生剣道八段 顕彰祝賀剣道大会」が、砺波市の県信連砺波会館で開催されました。ここには、武専時代の同級生・黒住龍四郎八段や、礪波中学の2年後輩で、日本剣道連盟副会長だった大谷一雄が招かれたほか、教え子らによって胸像が贈られました。しかしこの頃から、飯原の身体は病魔に冒されつつありました。

飯原は6年間の闘病生活の末、昭和41年3月2日に65年の生涯を閉じます。富山西別院で行われた葬儀・告別式には多くの弔問客が訪れ、常に笑顔を絶やさず相手を思いやる、剣聖・飯原の死を惜しみました。

 



この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。
なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部