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【日本の翼を世界に広めた男】若杉 禮三

2025.11.01

戦後唯一、開発・製造された国産民間旅客飛行機「YSー11」は、60人乗りのターボプロップ機として、世界に翼を広げました。同機は日本航空機製造(以下日航製)が製作・販売していましたが、その後YSの後継機開発を進めるべく設立された、民間輸送機開発協会(以下開発協会)で専務理事として活躍したのが若杉禮三です。若杉は、在籍した三菱重工業(以下三菱)や日航製、そして開発協会で、日本の航空機産業の発展に力を尽くしました。

 

砂利道に揺られながら

若杉禮三は大正4年(1915)11月24日、東礪波郡雄神村庄(現在の砺波市庄川町庄)で小学校教員(後に雄神村長)をつとめる、武田五三郎の三男として生まれました。県立礪波中学校(現在の県立砺波高校)に進学した禮三は、自宅から鷹栖の学び舎まで、約10キロの未舗装道を自転車で通い、3年修了時には皆勤賞を授与されます。

昭和8年、彦根高等商業学校(現在の滋賀大学経済学部) へ進学し、昭和13年には憧れの三菱へ入社します。それから間もなくして縁談話が持ち込まれ、福光の木工産業会社の役員で、写真館を営む若杉家の長女・みさをと結婚、名古屋で新婚生活をスタートします。

この頃から、日本は戦争の道を歩み出します。「新司偵」など陸軍の最新鋭機を製造していた、若杉の配属先・名古屋航空機製作所もその渦中に巻き込まれます。しかし、昭和19年12月7日に発生した東南海地震や米軍による猛攻を受け、壊滅的な被害を受けたことから工場の疎開が急務となり、富山の大門・井波・福野の元紡績工場からなる第11製作所が組織され、移転することになりました。
 

故郷に残した爪跡に苦悶する

「新司偵キ46」の製造を担った第11製作所は、疎開終了時にはすでに敵国の攻撃対象とされていたことがわかりました。そのため軍需省はさらなる移転調査を行い、結果若杉の故郷・雄神村に地下工場を建設することを決定します。昭和20年3月から、地下工場用のトンネル掘削工事が始まりますが、同年8月15日に工事が途中のままで終戦を迎えます。若杉はこの日、現在の東洋紡績大門工場で玉音放送を聞き、呆然自失の状態となります。その翌日には、当時の工場長の代理として、所内に唯一残されていた霊柩車で富山県庁を訪ね、今後の指示を仰ぎました。

敗戦後の残務整理をようやく終えて故郷へ戻った若杉は、緑いっぱいだった山麓が、赤茶けた廃土が等間隔に崩れ落ちた様相を見て、愕然とします。そして後日、父が「おらが息子は、故郷に帰って錦を飾るどころか、故郷にトンネルを開けっ放しで行ってしまった」と、村の古老にこぼしていたことを母から聞きます。この後、名古屋へ戻った若杉の目には、悲嘆に暮れた姿で鍋や釜を造る、かつての同僚の姿がありました。彼は胸を締めつけられる思いになりました。

さて戦時中、航空機製造の約四割を占めていた三菱は、戦後アメリカ合衆国によって行われた、戦略爆撃調査団の調査に積極的に協力しました。そうした姿勢が認められ、三菱は戦後も引き続き航空機製造を担うことになりました。
 

日本の航空技術を世界へ!

名古屋で航空機製造が再開された昭和32年、名古屋航空機製作所業務部長に就任していた若杉は、「Fー104」の国産化に向けて、川崎航空機(現在の川崎重工業)の技術者や防衛庁(現在の防衛省)の関係者、テストパイロットらとアメリカのロッキード社を訪れます。そこで実物大模型の審査に立ち会ったほか、川崎との作業量分担を決めるという仕事を担いました。

名古屋航空機製作所の主管だった昭和45年、若杉は「YSー11」の後継機開発のために設立された民間輸送機開発協会に出向し、専務理事となります。その頃、開発協会では「YX/XXX」の開発が計画され、彼はボーイング社との交渉役をつとめ、契約締結にこぎつけました。それからは、旅客機「B767」の日米伊国際共同開発事業の日本側窓口もつとめ、現在は世界の多くの航空会社で採用されるに到っています。

さて技術的には成功した日本航空機製造でしたが、海外販売等の失敗で赤字を重ねた結果、昭和58年に会社の解散が決定されます。若杉は、今まで会社に尽くしてきた社員に、「解雇」を申し渡すという辛い役目を担います。数十回に及ぶ労使交渉から、社員の身分保障を大切に考え、安定した職場を斡旋することに心を砕きました。
 

「ふるさとは 遠きにありて 思うもの」

昭和57年5月、若杉の古巣・名古屋航空機製作所で、発足25年記念事業として所史が編纂されることになり、彼はそのアドバイザーに迎えられます。この際、若杉が業務部長の時に所報で連載していた、航空史の随筆『翼の誕生』が大いに役立ちました。また昭和43年に出版された『零式戦闘機』に対しても、戦後埋もれていた当時の資料を丹念に調べるなど、著者・吉村昭への取材協力を惜しみませんでした。

話は変わりますが、昭和60年代に砺波高校ラグビー部が、花園ラグビー場で開かれる「全国高校ラグビー大会」に出場した時のこと、若杉はラグビー部の部長・山崎栄を呼び止め、声を掛けます。この時、若杉は嬉しそうに「(母校) 砺波高校が出場していると聞き、応援に来たんだ!」と話したといいます。そもそも山崎の父親は若杉写真館で働き、若杉の義父が亡くなった後は、彼に代わって写真館を守り続けていました。そうしたことから二人はよく知る間柄でした。

航空界と共に歩み続けた若杉は、平成13年8月、85年の生涯を閉じました。
 



この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部

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