2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
みなさん、「時代考証」という言葉を聞かれたことはありますか?テレビや映画で放映される時代劇で、昔の慣習や史実と違う点を指摘することをいいます。こうした時代劇の「お目付け役」である、時代考証に生涯を捧げたのが、稲垣史生です。稲垣はNHK大河ドラマの時代考証に携わったほか、『時代考証事典』や『歴史考証事典』など多くの歴史読物を著し、正しい時代劇のあり方を啓蒙し続けました。
稲垣史生(本名・秀忠)は明治45年(1912)5月12日、東礪波郡出町(現在の砺波市本町)で、からつ屋(陶磁器屋)を営む稲垣和左衛門の次男として生まれました。出町には、代々子供歌舞伎が受け継がれていますが、家業の傍ら、在郷軍人だった父は、「男が(曳山の)子供歌舞伎のような、『軟弱』なことをする必要はない!」と秀忠少年に言い渡し、歌舞伎好きの彼はとてもがっかりします。
そんな父が収集した骨董品のひとつに、「長篠の合戦」を描いた武者絵の六曲屏風がありました。馬に乗って敵陣に攻め込む、若武者が描かれたこの屏風を見て、彼は魅了されます。
稲垣が小学1年の時のこと、金沢で予備少尉として勤めていた父は、彼を兼六園へ連れて行きました。そして高台に位置する兼六園へ水を汲み上げる原理を発明した商人が、加賀騒動に巻き込まれて暗殺されたという話を聞かせます。「才智ある者を生かしておいては、後々どんな災いをもたらすか知れぬ。騒動の首謀者とされた大槻伝蔵も、本当は無実の罪といわれているが、極悪人に仕立て上げられている」という話に衝撃を受けます。そして深く疑問を抱いた彼は、次第に歴史の魅力に引き込まれていきます。
県立礪波中学校(現在の県立砺波高校)、早稲田大学文学部國文学科を卒業した稲垣は、昭和11年に都新聞(現在の東京新聞)へ入社し、社会部に配属されます。
「心中事件だ。来い!」、新人の稲垣は、警視庁詰めの先輩記者に随行、一家五人心中という凄惨な光景を前にして、ただ呆然と立ち尽くすことしかできませんでした。しかしその後は、上司から仕事ぶりを高く評価され、海軍報道部の嘱託記者に推薦されます。昭和15年には特派員として蒙古(モンゴル)へ派遣された稲垣は、その経験をもとに翌年『京包線にて』を発表し、サンデー毎日大衆文芸賞を受賞、以後は海軍報道部で記者生活を送りながら、歴史小説を書き続けました。
その後終戦を迎え、砺波へ戻った稲垣は、同好の青年たちと高岡で「北国愛書会」を主宰していました。そんな昭和21年の冬のある日、大学・新聞記者の大先輩で尊敬していた松村謙三が、突然この会に顔を出します。松村は学生たちと炭火を囲みながら、中央アジアへ入った富山出身の僧侶のことなどを話しました。
これから間もなくして東京へ戻った稲垣は、サンニュースフォトス社の記者や雑誌編集長をつとめました。
昭和37年、稲垣の小説『花の御所』が、第20回オール讀物の新人賞を受賞します。同時に直木賞候補にノミネートされ、彼は作家として認知されるようになります。しかしこの頃、狭心症の発作を起こして1ヶ月入院した彼は、執筆活動を続ける自信が持てず、自分のペースでできる時代考証をライフワークとする決意を固めます。そして豊臣秀吉研究の第一人者・桑田忠親や、作家の南條範夫らと親交を深めました。
そんな稲垣に、突如大きなチャンスが訪れます。昭和43年に放送されるNHK大河ドラマ『竜馬がゆく』で、時代考証という大役を任されたのです。この作者である司馬遼太郎からは、「時代考証の第一人者」と高く評価され、以後は『樅の木は残った(昭和45年放送)』、『春の坂道(昭和46年放送)』、『勝海舟(昭和49年放送)』、『風と雲と虹と(昭和55年)』といった名作の時代考証を手掛けました。その傍らで多くの本を世に送り出し、執筆や史実調査を続けました。
また稲垣は、カルチャー教室で時代考証の講義を受け持っていました。ここには当時女子大生で、彼に憧れを抱いていた杉浦日向子が熱心に訪れ、後に江戸風俗研究家として活躍する素地を築きました。
昭和56年の冬、稲垣はテレビ出演のため、久々に砺波へ戻ります。幼い頃に兵隊ごっこをして遊んだ公園はすでになく、商店街のショーウインドーには流行品が陳列されるなど、故郷の発展ぶりに驚きます。
それからしばらくの後、稲垣は京都の東映太秦撮影所に出かけます。日頃から時代劇のデタラメぶりを厳しく批判していた彼は、衣装部のスタッフから殴られるのではと恐々としていました。しかし到着するなり、稲垣の周りに人だかりができます。「あれも聞こう、これも聞こうとお待ちしていました!」、先輩の言うままにやってきた彼らは、どうしてそうなるのかを知りたかったのです。
以前から白内障や膀胱ガンなどで入退院を繰り返していた稲垣は、「ボクには時間がないんだ!」と言い続け、決して筆を置こうとはしませんでした。そして妻で作家の大路和子に「ありがとう」と絶えず感謝の言葉を掛け続け、平成8年2月27日に83年の生涯を閉じます。
「あなたを通してでなければ、昔の人の生活は誰にも分からない。なんと偉大で、ねたましいような幸せ者でもありました」、弔電を寄せた瀬戸内寂聴は、稲垣を最大限の言葉でこう称えています。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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