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【柔の道を心から愛し続けた男】老松 信一

2025.11.01

昭和58年1月に行われた「正力杯国際学生柔道選手権大会」の開催時、大会運営をめぐって全日本柔道連盟(全柔連) と全日本学生柔道連盟(学柔連)が対立、以後柔道界の内紛にまで発展しました。この際、全柔連側の代表として、両者の融和に心を砕き、関係修復に尽力したのが、老松信一です。誰からも尊敬される、謹厳実直な柔道家として活躍した老松は、日本の柔道界にその名を残しました。

 

虚弱体質の自分を鍛えたい!

老松信一は明治45年(1912) 1月9日、東礪波郡出町中神(現在の砺波市中神)で生まれました。幼い頃から虚弱体質だったので、体を鍛えるために柔道を始めますが、次第にその面白さに目覚めます。そして東京高等師範学校(現在の筑波大学)へ進学し、日本武徳会に所属して段位を取ります。昭和8年に講道館に入門した彼は、嘉納治五郎の柔道精神を学んでいきました。

五段に昇進した昭和12年4月、老松は師範学校を卒業し、※旅順師範学校へ訓導兼教師として赴任、その後は助教授となります。以後は昭和13年7月、「第10回東京学生柔道連盟対満州対抗試合」に満州代表として出場したほか、「全満州柔道選手権大会」では五段の部に出場し、準優勝という快挙を成し遂げます。さらに昭和17年に行われた「満州国建国10周年慶祝日満柔道大会」に満州軍の代表としても出場し、老松の名は日本・満州双方の柔道界に轟きました。そして戦局が厳しさを増してきた昭和18年11月に帰国、旧東京体育専門学校(現在の筑波大学) 助教授に就任しました。
 

順天堂大学柔道部を率いる

昭和24年4月、老松は東京教育大学(現在の筑波大学) 体育学部学務課長となり、4年後には全日本柔道連盟常任幹事、講道館庶務課長に就任します。この頃に、柔道に関するあらゆる記録を丹念に丁寧に集約して、『柔道五十年』をまとめます。これに対して、当時の講道館長・嘉納履正は、「柔道を目指す人が、常に手に取るべき好著」と高く評価しました。

さて昭和31年、順天堂大学に教授として赴任した老松は、間もなく発足した柔道部の部長に就任します。彼は新入生が入ってくると、必ず「技を見ましょう!」と言って打ち込みの相手となり、一人ひとり時間を掛けて指導することを心掛けました。こうした姿勢に共鳴した学生たちは、老松の一挙手一投足も見逃すまい、一言も聞き漏らすまいと、ひたすら練習に励みました。その後、電気通信大学に移籍しますが、引き続き学生相手に柔道を指導する日々を送りました。

電気通信大学を退官した昭和52年、「平均寿命の73歳まで生き抜いて欲しい。諸君が73歳になる頃、私は120歳という勘定になるが、諸君がそれまで活動してくれるかを見守りたい気持ちだ」と老松は学生たちに語り、彼らの涙を誘いました。
 

修復改善の先頭に立つ

昭和58年1月、大学柔道組織のあり方をめぐって、柔道界の二本柱である全柔連と学柔連の両者が対立、「嘉納治五郎先生の目指した『柔道』は、こんなものだったのか・・・」と老松は嘆きます。そんな中、問題解決にあたる調停委員会が組織されることになり、温厚な性格で知られた、当時東京都柔道連盟理事だった老松が調停委員に推薦されます。そして両者の融和に向けて、身を挺します。結果、翌年に両者が歩み寄り、新生・全日本学生柔道連盟が結成されるに到りました。

ところが、人事をめぐって再び内部分裂、大学の柔道部も「国立・筑波連合」派と「私立」派に分かれて激しい派閥争いになりました。また私立側は一枚岩ではなく、明治、早稲田、そして以前老松が在職した順天堂の各大学などが、国立・筑波側(老松側)を支持します。両者の対立は司法の場にまで持ち込まれ、こうした事態を憂慮した国会議員柔道連盟が調停に乗り出します。それが功を奏して対立は一気に終息し、大学柔道部の統一組織として日本学生柔道連盟が誕生、老松が願い続けた柔道組織の一本化がはかられました。この間、両者に挟まって非難・中傷を受け続けた彼は、ようやく胸を撫で下ろしました。
 

本籍地の「砺波」に誇りをもって・・・

早くから故郷を離れた老松は、本籍地をずっと砺波に置くことにこだわり続け、砺波出身であることをいつでも提示できるようにと、自動車を運転しないにもかかわらず、欠かさず免許証の更新を行い、身分証明書としてそれを肌身離さず持ち歩きました。

また読書が趣味という老松は、休日に東京・神田の古書街を散策して、武道関係の古書や巻物を見つけることを楽しみとしていました。出勤時と同じように、書類と本を入れた重いカバンを持ち歩いて出掛ける姿は、他人からは不思議に見えました。またデパートでのウインドーショッピングも楽しみのひとつで、学生に「正統派のおしゃれをしなさい」と常々話し、外出時にはベレー帽を被るなど、おしゃれにも気を配るダンディーぶりでした。

家庭での老松は、昭和20年代の懐メロ番組を見て目を潤ませたり、当時としては珍しい夕食後のデザートを楽しむという一面をみせていました。

嘉納治五郎の柔道精神に出会い、その実践と普及に生涯を捧げた老松は、平成7年4月21日に83年の生涯を閉じました。
 


※•••旧満州国。現在の中国遼寧省大連市の一区。


この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部

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