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【世界にナデシコを咲かせたかった男】大島勝太郎

2025.11.01

「幻の花、ヤマトナデシコ(以下ナデシコ)の種子、無料で差し上げます」。こんなメッセージを新聞や園芸雑誌に投稿し、日本各地をはじめ世界各地の希望者、延べ3万人以上にナデシコの種を送り続けたのが、大島勝太郎です。大島は海藻学研究・カーテン販売業・郷土史研究と様々な分野で活動し、晩年はナデシコを世界中に咲かせたいと、自身で育てた種をコツコツ送り続けました。そしてこれらは、現在も各地で美しい花を咲かせています。

 

海藻の神秘な姿にひかれて

大島勝太郎は明治42年(1909) 8月24日、東礪波郡出町深江上町(現在の砺波市広上町)で農業・大島宗一郎の次男として生まれました。友人からはいつも、「将来は花の先生になれ」と言われ、自他共に認める花好きな少年でした。

大正11年に県立礪波中学校(現在の県立砺波高校)へ入学した大島は、1年生の夏休みに押し葉を250枚作り、学校へ提出します。その熱心な研究ぶりは高く評価され、特等賞をもらいます。それからますます自然への関心を深めた大島は、全国で唯一、中等教員養成所博物科を有する廣島高等師範学校(現在の広島大学教育学部)に進学し、海藻の研究に没頭します。ここでも旺盛な探究心をみせた彼は、担当教官を通じて、日本海藻学の権威・岡村金太郎から個人指導を受け、その経験を糧としていきました。

昭和6年に廣島高等師範学校を卒業した大島は、県立氷見高等女学校(現在の県立氷見高校)の教諭となり、富山湾の海藻について本格的に研究を始めます。当時富山湾では、39種の海藻しか判明していませんでしたが、大島は163もの新種を発見し、教育雑誌『富山教育』で論文を発表しています。
 

体を壊して研究を断念

昭和8年8月、さらなる海藻研究を志した大島は、教諭を辞めて廣島文理科大学生物科(現在の広島大学理学部)に入学します。その後間もなく開催された日本海藻学大会で、彼は岡本との共同研究である日本海特産の海藻について発表しました。

しかし、海藻を研究するために、寒い海に潜り続けた大島は結核を患い、療養生活を余儀なくされます。昭和11年、ついに退学を決意し、志半ばで故郷・出町へ戻ります。療養生活の中でも、彼は当時の富山県知事に海中農業の開発を進言することもありました。

翌年、体調が回復した大島は、愛知県西尾高等女学校(現在の愛知県立西尾高校)へ赴任します。同じ頃、船からでも楽に水中を見ることができる水中望遠鏡を考案し、実用新案登録しています。

その後、静岡女子師範学校(現在の静岡大学教育学部)へ転任しますが、この頃から栄養失調と過労で結核を再発、昭和23年に再び故郷へ戻ります。

度重なる療養生活中にもかかわらず、大島は海藻に関する多くの論文を著し、昭和25年には日本最初の本格的な地方海藻誌となる、『富山湾海藻誌』を発表しています。しかし名ばかりの療養ゆえ、健康はなかなか回復せず、昭和29年、再び志半ばで教員を辞める決意を固めました。
 

ミシンで「絵」を描く

さて氷見高校の教員を退職したばかりで、生活に困り果てていた大島に、教え子がミシン販売を勧めます。早速彼は、県立砺波女子高校(現在の県立となみ野高校)にまとまった台数のミシンを販売することができました。しかし先生から、「もっと便利な使い方がないか」と相談を受け、「ミシンの使い方を知らずに売ろうとしていたのか・・・」と反省した彼は、妻・幸子から必死に操作方法を学びます。

そうした中で大島は、多くの人にミシンへの興味を深めてもらおうと、自身が制作したアップリケを集めた個展を富山図書館(現在の富山市立図書館)で開きます。その作品の数々は、まさに芸術品の域に達していました。そして翌年からはカーテン制作を手掛け、砺波で富山県初のカーテン専門店を開業します。

時を経た昭和56年1月、一家は店舗拡張のため、長年住み慣れた上町から永福町へ移り住むことになります。一抹の寂しさを感じた彼は、今までお世話になった地区の人々に感謝の思いを伝えるため、地区の歴史をまとめようと思い立ちます。それから地区の古老を中心に150軒、延べ230人に聞き取り調査をします。そして翌年に、『深江・上町・末広町五百年のあゆみ』を完成させ、地区民に配布しました。
 

菊とナデシコを咲かせ続けて

昭和45年頃のある日、大島は道端に咲く一輪の野菊を見つけます。それまでは気にも留めていなかった野菊が、ことのほかきれいに思えた彼は、小菊を栽培し、お客さんにサービスしようと思い立ちます。そして自身で新品種を作ろうと、全国各地に咲く野菊の収集に奔走したほか、「青い菊」を作ろうと試みたこともありました。

そうした中で大島は、晩年一生をかけて活動することになる、清楚で可憐な花を咲かせるナデシコと出会います。昭和54年から本格的にナデシコの普及活動を始めた大島は、昭和58年に「富山県花と緑の銀行 花いっぱい運動表彰」、平成元年に「全国花いっぱいコンクール表彰」を受賞しました。

こうしてナデシコの普及活動の他、様々なことに尽力した大島は、平成13年12月8日に92年の生涯を閉じます。通夜当日、大島の活動に共鳴し、彼の後を継いだ元中学校教諭・奥村美智子は、庄川に咲いていたナデシコを仏前に供えました。その後は、「砺波のヤマトナデシコを守る会」が結成され、現在も各地へ種を送り続けています。
 



この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部

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