2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
平成17年1月、井波サッカースポーツ少年団の結成30周年記念式典と、当団出身でとなみ野初のJリーガー・岩倉一弥(横浜FC所属)の祝賀会が開催されました。このスポーツ少年団の結成に尽力したのが、洲崎勇一です。サッカーを愛し続けた洲崎は、子どもたちにサッカーの魅力を伝え続けました。そして多くのサッカー少年を育てた彼は、「井波町サッカーの父」としてその名を残しました。
洲崎勇一は昭和5年(1930) 1月7日、東礪波郡井波町山見(現在の南砺市山見)で生まれました。昭和12年4月、井波小学校に入学した彼は、活発な少年で手足には生傷が絶えませんでした。そして、小柄ながらもドッジボールや運動会などでスポーツ万能ぶりをみせていました。
昭和18年、旧制富山高等学校尋常科(現在の富山大学)に入学した洲崎は、通学が不便だったことから独り暮らしを始めます。彼は飯原藤一が指導する剣道の授業でも、火の玉小僧のごとく道場を暴れまわるなど、そのワンパクぶりは相変らずでした。
さて、親の跡を継いで医者を志していた洲崎はサッカー部に入ります。勉強に励むというより、頭の中は常に大好きなサッカーのことでいっぱいでした。サッカーの魅力にのめり込んでいった彼は、授業中でもよく机の下にボールを入れて足元を馴染ませるほどで、めったなことで部を休むことはありませんでした。そんな中、出征していた洲崎の父が戦死したという報せが飛び込んできます。突然の訃報に、彼はただ呆然としますが、一家は洲崎の双肩に掛かることになりました。
戦後間もなく、旧制富山高校のサッカー部が活動を再開することとなり、洲崎はお腹をすかせながらボールを追うという日々を送りました。医学部受験が間近に迫る中でも、彼を慕う同級生らがいつも下宿に集まり、サッカーや自身の将来について熱く語り合いました。
昭和26年4月、洲崎は信州大学医学部へ入学します。この年、サッカーで富山県の代表選手に選ばれた彼は、大学でサッカー部を結成するなど、縦横無尽の活躍をみせました。それから4年後の昭和30年、インターンとして井波厚生病院(現在の南砺市民病院)で勤務を始めた彼は、翌年には念願だった医師国家試験に合格を果たし、富山赤十字病院産婦人科へ赴任することになります。この間彼は、昭和33年に開催された富山国体で、サッカー競技(一般の部)に出場しています。
そして昭和35年9月、故郷・井波で産婦人科を開業した洲崎は、その傍らで警察医、井波高校医、高瀬・井口診療所医、マーシ園嘱託医をつとめるなど、多忙を極めました。しかしサッカーのためなら時間を惜むことはなく、「どこに行ったんだ?」と家族や患者たちが心配して探すと、きまって近くのグランドで、無邪気にボールを蹴る洲崎の姿がありました。
昭和48年5月、洲崎はサッカーを愛する子どもたちを増やそうと、井波サッカースポーツ少年団を結成します。そして彼は監督に就任し、サッカーの面白さを伝えました。
このようにサッカーへ情熱を注いだ洲崎は、指導の際にも、決して妥協したり甘えたりすることを許しませんでした。たとえ小学生であっても、いい加減な練習やプレーをしているのを見ると、「お前、サッカーをバカにするな!」と怒るなど、常にサッカーと真正面に向き合う姿勢を伝え続けました。
また、もともと子どもが好きだった彼は、常に子どもたちの目線に合わせた指導を心掛け、その思いは着実に伝わっていきました。それがきっかけとなり、サッカーのファンは次第に増え、保護者までが熱くなり、昭和56年に富山県初のママさんサッカーチームとして「井波アイリス」が、洲崎の声掛けで創立されました。メンバーは、彼が指導していた小学生の母親が中心で、練習日には必ずグランドを訪れたほか、試合に出かけてその模様をビデオで撮影し、自宅に招いて観戦することを楽しみにしていました。
昭和61年2月12日、突然体調不良を訴えた洲崎は、金沢大学医学部附属病院に緊急入院します。そこで彼は悪性リンパ腫と診断され、8ヶ月の闘病生活を送ります。この間に井波サッカースポーツ少年団は、念願の全国大会出場を果たします。嬉しさを抑え切れなかった洲崎は、県大会の決勝戦の時、病身にもかかわらず会場に駆けつけ、子どもたちに声援を送り続けました。そして「本当のサッカーマンは、ボールを抱いて死ぬものだ・・・」と言い続け、翌昭和62年6月23日に57歳でこの世を去ります。
それから3ヶ月後の10月11日、旧制富山高校のサッカー部OB20人が井波に集まり、洲崎を偲ぶ追悼試合を行いました。試合終了後に、彼らは洲崎の墓前に集まり、涙しながら校歌を歌い、亡き洲崎との永遠の友情を誓い、感謝の意を捧げました。
現在、井波サッカースポーツ少年団は、洲崎の教え子が中心となり、後進の育成にあたっています。「サッカーはどこの国でもやっている。これからはサッカーを通じて、もっと世界と交流することが大切だ」と話し続けた洲崎の思いは、現在も脈々と受け継がれています。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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