2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
大正中期、民主教育の一環として「ドルトン・プラン」という教育方法が提唱・実践されました。これは教師が講義して教え込む一斉授業ではなく、生徒自らがプログラムを作り、設定した学習内容について、参考書などを調べて研究し、理解していくものです。吉田惟孝は鹿児島や熊本、北海道などで、学生の自主性を重んじるドルトン教育の実践・普及に尽くしました。
吉田惟孝は明治12年(1879)10月20日、東礪波郡南般若村東石丸(現在の砺波市東石丸)で、父・吉兵衛、母・千代乃の長男として生まれました。村長を長く務めた父は村民の信望が厚く、屋敷内のケヤキの大木を2本献木して東石丸神社を建立するなど、数多くの実績を残しました。
明治19年、吉田は秋元村(現在の砺波市秋元)の小学校へ入学します。両親は彼に農業を継がせたいと考えていましたが、向学心に燃えていた彼は両親の目を盗み、自宅の蔵の二階に教科書を持ち込んでは、窓からわずかに射す光で勉強に励みました。その後は学制変更に伴い、転校を繰り返しますが、どこの学校に行っても常に優秀な成績を修めていました。
こうした様子を見ていた父は、ついに彼の進学を認め、明治28年に富山県師範学校(現在の富山大学教育学部)への入学を果たします。吉田はこの学校で、生涯の友人となる福井直秋(上市町出身)と出会います。福井は後に、現在の武蔵野音楽大学を創立しますが、彼が経済的に困ると相談を受けた際には、吉田はわずかな給料の中から援助を続け、福井の目指す音楽教育を側面から支えました。
明治32年、富山県師範学校を卒業した吉田は、東礪波郡立井波高等小学校(現在の南砺市立井波小学校)の訓導(教師)となり、社会人生活のスタートを切ります。翌年には出町尋常小学校(現在の砺波市立出町小学校)へ赴任、一年後の明治34年には21歳という若さで太田尋常小学校(現在は砺波市立庄南小学校となる)の校長に就任します。
そうした中で彼は、「教師と生徒は、軍の上官と兵卒の関係と似ている。これで師弟間の親愛が、十分に成り立つのだろうか」と、それまでの旧態依然とした教育気風に疑問を抱くようになります。ここから一念発起した吉田は、明治35年に設置された廣島高等師範学校(現在の広島大学教育学部)へ第一回生として入学します。はじめは物理化学の専攻を考えていましたが、語学の必要性を感じて英語を専攻、教学を深めました。
明治39年、廣島高等師範学校を卒業した吉田は、新潟の高田師範学校(現在の上越教育大学)、大阪の池田師範学校(現在の大阪教育大学)の訓導を経て、明治43年に鹿児島県女子師範学校(現在の鹿児島大学)の主事となりました。そして大正6年7月、同校の第2代校長に就任、当時の良妻賢母主義に根ざした女子教育に対し強く抵抗をみせ、自学自習を重んじる教育に取り組みました。
さてドルトン・プランとは、後に玉川学園を創立した小原國芳や成城学園創立者・沢柳政太郎らを中心に、大正デモクラシーの新教育運動の一貫として唱えられたものです。
そんな中の大正10年7月、吉田は文部省(現在の文部科学省)より欧米への出張を命ぜられます。当時、「自主学習」で世界に知られていたニューヨークのドルトンスクールを訪ね、教育者のヘレン・パーカストに会うことが目的でした。しかし、彼女自身も多くの授業を受け持っていたため会うことができず、やむなく帰国の途に着きます。
その前年の大正9年12月、熊本第一高等女学校(現在の県立熊本第一高校)の校長に就任した吉田は、早速女子教育の改革に着手します。こうした教育革新の波はたちまち全国に広まり、授業風景を一目見ようと、各地から見学者が押し寄せました。しかし、全国的に広まりつつあったデモクラシー教育に対して懸念を示した政府は、吉田の更迭を画策します。彼は保護者を前に、自身の思いを説き続けますが、保守的な土地柄のためか、なかなか受け入れられませんでした。
大正14年4月、失意のまま熊本を後にした吉田は、小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高校)の校長となり、再びドルトン教育の実践に取り組みます。ここには、後に詩人・文芸評論家として活躍する伊藤整が、英語教諭として在籍していました。伊藤は自著で「彼が世渡りや、地位や、名誉のために生きている人間ではなく、現職にあるうちに為すべき仕事をしておきたい、という充実した生き方をしている人間であることを理解させた」と記すなど、教育者・吉田に畏敬の念を抱き続けました。一方の吉田も、伊藤が自分を応援してくれることに意を強くしました。
昭和7年、吉田は福井県立福井中学校(現在の県立藤島高校)の校長に就任し、ここでもドルトン教育を実践します。そして昭和16年3月末日付で退職、42年の教員生活に終止符を打ちました。
退職後故郷へ戻った彼は、南般若村議、東石丸区長、東石丸神社氏子総代などをつとめ、昭和19年2月5日、66年の生涯を閉じました。
同志の小原國芳は、「全くステキな新教育でした。『世界一』の自学ぶりと言っても過言ではなかった」と、吉田を高く評価しました。そして彼らの志は、現在も「総合学習」として生き続けています。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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