2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
選挙につきものの応援演説は、候補者の魅力を聴衆に伝えるために、わずかな時間でテンポよく話をする能力が求められます。そんな雄弁家として、現在も語り継がれているのが山本良勝です。山本は代用教員から軍隊生活を経て、柳瀬村助役や砺波市議、そして佐藤工業の副会長と多彩な人生を歩みました。機を見るに敏で、才気煥発、そして弁舌さわやかだと称された彼は、読書や絵、書などを嗜む風流人としても愛され続けました。
山本良勝は大正4年(1915) 3月27日、東礪波郡柳瀬村(現在の砺波市柳瀬)で、農業を営む父・良平と母・千代の長男として生まれました。地元の小学校を卒業した彼は、県立礪波中学校(現在の県立砺波高校)へ進学、水泳選手として活躍します。そして1年生から5年生までの5年間、平泳ぎで北信越5県(富山・石川・福井・新潟・長野)のチャンピオンとなるほどの実力をみせました。
昭和7年に礪波中学校を卒業した山本は、家業を手伝いながら、地元の小学校で代用教員として働き始めます。しかし代用教員ゆえに、その給与待遇に差別があることを知った彼は、大いに腹を立てます。そのため山本は、当時のエリートコースである軍人を志し、補充二等兵として召集された後、陸軍幹部候補生として陸軍士官学校に入学します。
卒業後は第九師団に所属し、軍人としての大半を満州で過ごしますが、その当時の師団長・原守中将の知遇を得て、師団副官陸軍大尉にまで出世します。以後は沖縄に渡り、台湾で終戦を迎えます。
軍人生活を終えて故郷へ戻った山本は、地元の名士である三代目・佐藤助九郎の勧めに従い、佐藤工業に勤めることになります。当時の社長である佐藤からの誘いは、ただただ嬉しく感じました。その傍らで彼は、昭和22年4月から約1年、佐藤の実弟で当時の柳瀬村長・佐藤欣治のもとで村助役を兼務し、組合立の中学校設立や農業の近代化など、村の発展に尽くします。その後は佐藤工業に勤務しながら柳瀬村議会議員に立候補し、砺波市への合併後は4期16年、砺波市議会議員を務めました。
昭和38年、第9代の砺波市議会議長となった山本は、参議院選挙(全国区)の遊説で砺波を訪れていた郵政大臣・迫水久常の応援弁士を、突然引き受けることになりました。「立て板に水」というにふさわしい、流麗な演説を披露する彼を見ていた迫水は、「田舎にこんな弁舌家がいるのか!」と驚き、自身の選挙遊説のために全国を同行してほしいと懇願します。このように雄弁家であり、「秀でた政治センス」を持っていた山本は、迫水をはじめ田中角栄など多くの政治家と交流を深めました。中でも生涯、政治の師とした松村謙三とは、きわめて深い信頼関係を築きました。
昭和31年、佐藤工業は大手建設会社4社と共に、世紀の大事業といわれた黒部ダムの建設に着手します。事務課長だった山本は、工事の発注者である関西電力の会長・太田垣士郎に出会い、結果太田垣から絶大な信頼を得ます。 難工事だったこの様子については、石原裕次郎主演の『黒部の太陽』で映画化されましたが、山本は他社ばかりをクローズアップしたこの映画を、「腹が立って一度も見なかった」と怒りをあらわにする場面もありました。
昭和44年、佐藤工業の取締役大阪支店長に就任した山本は、以後常務、専務取締役、代表取締役副社長を歴任し、昭和63年には副会長に就任します。また日本土木工業協会などの業界団体の世話役を引き受け、業界他社からも大きな信頼を寄せられました。
平成3年8月、山本が柳瀬村の助役時代から仕えてきた、佐藤欣治が亡くなります。 当時代表取締役相談役で葬儀委員長をつとめた彼は、「常に志を高くし、信じることには勇往邁進される経営の姿勢と、豊かな包容力と情誼に厚い人となりは、私どもの等しく敬愛してやまないところでございました」と、遺影に語り掛けるように弔辞を読み上げました。
この翌年の平成4年、佐藤工業は全日空が運営するサッカーチームに資本提供し、「横浜A・Sフリューゲルス(全日空佐藤工業サッカークラブ)」が発足しました。これは前年に他界した佐藤欣治の長男で、当時の佐藤工業社長・佐藤嘉剛のサッカー好きが大きな理由でしたが、この佐藤工業と全日空との橋渡し役を担ったのが山本でした。たまたま、当時の全日空名誉会長・若狭得治とは中学校の同級生で、お互いに悩みごとを相談し合う間柄でした。
晩年臥せりがちとなった山本は、平成11年11月27日、砺波の自宅で84年の生涯を静かに閉じます。 葬儀では同時期に砺波市議を務めた親友・川辺俊雄(元砺波市長)が弔辞を読み上げ、故郷を愛し続けた山本の功績を讃えました。 また県議会議長を務めた米原蕃をはじめ、多くの政治家とも親交を結んだ彼は、長男・良紀に対して、「人は『縁』と『情』で生かされている」と常々話し、感謝することの大切さを諭し続けました。 また軍人時代に仕えた原守に対しては、縁と情に厚かった心の師として、尊敬し続けました。
波乱に満ちた時代を駆け抜けた生涯を送った山本でしたが、陰で支え続けた妻・澄子の献身がなければできなかった、といつも妻への感謝の思いを抱き続けました。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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