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【日中の真の交流を願い続けた男】重松 為治

2025.11.01

昭和47年9月、日本と中国は、戦後途絶えていた国交を回復しました。昭和30年から15年間、日中国友好協会富山支部の会長をつとめた重松為治も、この日を待ち続けた一人でした。重松は、戦時中に中華民国の最大都市・上海で、薬問屋「重松薬房」を経営しました。彼は文化や風習の違いを乗り越えて、内地から多くの良薬を輸入して販売しました。そして両国を「薬」で結んだ、「カサマツ」の名は中国全土に轟きました。

 

無我夢中で物事に取り組む

重松為治は明治26年(1893)1月16日、東礪波郡油田村石丸(現在の砺波市石丸)で、父・平松達次郎と母・いのの三男として生まれました。父は村の収入役をつとめており、母と祖父は農業を営んでいました。しかし食べ盛りの兄弟11人を抱えていた平松家の内情は苦しく、為治は小学校へ入る頃になると、家で飼っていた馬のエサとなる草刈りなど、農作業や家事、育児を手伝う日々を送ります。

さて小学6年生のある日のこと、村の青年たちが神社の境内で獅子舞を練習していると聞いた為治は、その練習風景を見ようと出掛けます。しかし神社に着くと、彼らは博打に興じていました。「神聖な場所で何をやってるんだ!」、無性に腹が立った彼は、青年たちに向かって石を投げつけます。驚いた青年たちは彼を追いかけますが、逃げ場を失って川へ飛び込み、無我夢中で草をつかみます。彼は助かったのが不思議なくらいで、これこそ神仏の加護だと思いました。この体験を通して、人一倍篤い信仰心を持つようになりました。
 

「薬の粉の中に頭を突っ込め!」

油田小学校(現在の市立砺波東部小学校)を卒業後、戸出尋常高等小学校(現在の高岡市立戸出東部小学校)に進学した為治は、酒商だった伯父の家に住み込み、店を手伝いながら勉学に励みます。ここでは卸業の経理を学び、彼は次第に商売の面白さに気付いていきます。しかし好成績だった彼を見ていた伯父は、県立高岡中学校(現在の県立高岡高校)への進学を勧めます。その後は薬屋を志し、県立富山薬業学校(現在の富山大学薬学部)に進学します。

そんな折、学校の専任教授から富山で売薬業を営む旧家・重松家との縁談話が持ち込まれます。それからは養父・佐平の意見に従い、薬の中心地である大阪の道修町にある丸石薬品会社で勤め、厳しい仕事の中から薬について学びます。こうして2年の勤めを終えた彼は、中国・上海に進出して薬種問屋を営んでいた養父を手伝うべく、大正6年3月に上海に降り立ちます。1年後には佐平が帰国し、為治が経営の舵取りを行うことになりました。そうして彼の地を這う努力が功を奏し、「重松」ブランドは上海市民に広く浸透していきました。その後は上海の本店を中心に、揚子江沿岸、蘇州、ゴコウ、無錫、南京、漢口に支店を持ち、日本の大手製薬会社は全て重松を通さないと販売できないまでに現地人からの信頼を得るに到ります。
 

勤勉で実直な人々に感動する

戦争という運命に置かれた日中両国は、関係悪化の一途をたどり、その結果、日系の重松大薬房の社員も、現地人から非難の対象となりました。しかし社員たちはそれにもめげず、家族のように包み込む重松へ大きな信頼を寄せ続けました。

昭和20年に終戦を迎えてからも上海に残留した重松は、引き続き会社の経営を担います。しかし富山の会社と自宅が空襲の被害を受けたことを知った彼は、翌年4月に断腸の思いで日本への引き揚げを決意し、別荘があった長崎県の島原半島に一時落ち着きます。ここで彼は、友人の勧めで温泉熱利用の製塩に取り組み、再起をはかりました。そして昭和24年には、富山市で※有限会社重松薬房を創立、郷里で再出発を果たします。この頃は、他社が販売網を張り巡らせていたため、徒手空拳の中からのスタートでした。「先見的商法」を訴えた重松は、医師に直接薬を売ることを提案します。営業マンはリュックを背負い、下駄履き姿で五箇山の山奥まで歩き回ったほか、県外にまで足を伸ばしました。併せて重松が心を砕いた「全員経営」の結果、富山県トップクラスの医薬品卸に成長しました。
 

上海を心から愛して・・・

昭和49年、経営の第一線から退いた重松は、医学に関わりを持つ仕事ができたことへの感謝の気持ちから、富山善意銀行を通じて、献体登録をします。会社は息子たちに任せ、ゴルフ場の植林といった緑化事業に取り組むなど、悠々自適の生活を送りました。また生前、郷里の石丸神明宮に献木し、故郷への思いを馳せていました。そして昭和57年3月10日、89年の生涯を静かに閉じます。

さて重松は日頃から従業員に対し、自身の経営哲学を伝えていました。上海時代の部下だった、現在大手ドラッグチェーンの会長は、「今日の自分があるのは、ひとえにおやっさんのお陰だ」といつも話し、胸ポケットの財布に重松の写真を忍ばせていたといいます。そして日中貿易の再開を願い続けた重松の遺志を受け継ぎ、貿易会社を設立しています。

時を経た平成10年、カサマツ株式会社と石川県を基盤とする明希株式会社が合併し、カサマツ明希が発足します。明希は石川県で最大手の薬問屋で、重松も経営参画していました。また平成13年には明祥株式会社として再スタート、現在は国内2位の医薬品卸持ち株会社「アルフレッサ ホールディングス」の一員として国内外に良薬を提供し続けています。
 


※•••後にカサマツ株式会社に社名変更。


この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部