2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
香川県高松市の隣に三木町という町があります。香川県下最大の町として発展し、日本一のスケールを誇る氷上八幡神社の大獅子が練り歩く所として、よく知られています。この三木町には香川大学医学部(旧香川医科大学)があります。この大学は昭和53年10月に開校しましたが、その創立に尽くしたのが、砂田輝武です。
砂田輝武は、明治45年(1912)1月2日、西礪波郡鷹栖村(現在の砺波市鷹栖)で、自作農の父・定二と母・美代の長男として生まれました。小さい頃から農作業を手伝い、百姓の苦労を肌身で経験します。
砂田の両親は大変教育に熱心で、「世間に特別役立つ人間になれ」と、ことあるごとに言いました。しかし一度も勉学や進学に対して口を出すことはありませんでした。この一見無干渉にも思える態度が、自分にやる気と責任を自覚させたと、砂田自身は後に回想しています。鷹栖村尋常小学校(現在の砺波市立鷹栖小学校)に進んだ砂田は、農作業で鍛えた体を活かして陸上の選手となり、活躍しました。
卒業後、近くの県立礪波中学校(現在の県立砺波高校)に進学した砂田は、剣道を始めます。もともと礪波中学は武道が盛んな学校でした。なお中学の同級生には、後に郵政大臣となる片岡清一や、後に伊藤忠商事特別顧問となる瀬島龍三などがいました。旧制富山高校に進んでからも砂田は剣道を続け、3年間家にも帰らず、合宿をしながら修業に取り組みました。そのかいあって初段を獲得し、剣道部の大将として活躍します。また全国高専剣道大会にも出場し、準優勝の栄冠を勝ち取りました。砂田は「剣道」という武道から人生訓を学びました。これが彼の医者としての原点となりました。 岡山医科大学(現在の岡山大学医学部)に進学してからは、外科の分野の研修に勤しみましたが、剣道にも力を入れ、大阪大学との定期試合に出場して「8人抜き」をやってのけ、その後の岡山県の剣道界にその名を轟かせました。
この当時、医学の分野のうち、とりわけ外科は研究が遅れていました。砂田の医者としてのプライドが、外科の研究に突き動かしました。特に戦前は未踏の分野だった心臓・血管外科の研究に力を注ぎ、日本における開拓者として外科治療の進展に力を尽くしました。 そのころはちょうど日本が軍国主義に突き進む時代、砂田は軍医として2回出征する経験もしています。終戦間際の昭和20年、岡山市内の大空襲に遭遇しましたが、この時砂田は、焼け残った岡山大学の第2外科棟で、まさに不眠不休で治療にあたりました。
昭和27年当時、砂田は岡山大学の助教授でした。彼は、外科医百年の夢といわれた心臓外科の分野に取り組んでいました。この頃の日本では、出生者の200人に1人が心臓に病を持っていました。かたや欧米では、心臓外科の研究が進んでいましたが、日本ではまだ研究途上の段階でした。砂田は欧米の研究データをもとに、基礎研究を始めました。
「不幸な子どもを何とか助けてあげねば!」と願った砂田が、西日本で初めて動脈管開存症(※1)の男の子の心臓にメスを入れたのは、それから2年後の昭和29年のことでした。
砂田はこの男の子の手術をきっかけに、以後多くの子どもの心臓を救うこととなります。総勢6000人もの患者の命を救い、うち4000人が15歳以下の子どもでした。砂田は、医学界で「心臓外科の第一人者」と評され、心臓外科の権威としてその名を轟かせました。
50歳を過ぎた時から砂田は、ふと思いついたように四国遍路(※2)を始めました。これは、自分が治し得ずして亡くなっていった患者へのすまないと思う気持ちと、その犠牲によって患者から教えてもらったことに対する感謝の気持ちから始めたものでした。砂田は患者の命を救えなかったことを、遍路を歩きつづけることで許しを乞うていたのです。
昭和53年10月から10年間、香川医科大学の学長を務めてきた砂田は、昭和63年3月に学長を定年退官しました。その年の4月からは第一線を退いて名誉教授となり、後進の指導に当たりました。それから半年後の11月21日、岡山のホテルで教え子たちによる、砂田の叙勲と喜寿の祝賀会が盛大に開かれました。教え子たちに囲まれた砂田は、終始満足げな様子だったといいます。
この翌日、親戚の葬儀に出るべく、砺波へ向かっていました。その途中の新幹線で具合が悪くなり、ぐったりとした砂田は、新大阪駅から救急車で病院へ運ばれました。しかしすでに砂田は息を引きとっていました。享年76歳での、突然の他界でした。
心臓外科の名医といわれた砂田は、故郷・砺波の田園風景が大好きでした。チューリップで有名な砺波を、「一年中花が咲きつづける場所になれば」と、遠く香川の地からエールを送り続けました。
※1•••「動脈管」とは、大動脈と肺動脈をつないでいる血管で、子宮の中にいるときはみなこの血管があいていて、胎盤からもらった酸素の多い血液が下半身へ通るが、通常はうまれてまもなく閉じる仕組みになっている。これが開いたままになること。
※2•••祈願のために四国八十八カ所の霊場を巡り歩くこと。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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