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【城端から京の伝統作業に挑んだ男】川島甚兵衛

2025.11.01

京都市左京区は、山々に囲まれた自然の美しい場所として知られ、大原三千院や鞍馬寺などの名所や旧跡が数多く点在しています。その鞍馬寺にほど近い所に、近代的で大きな工場があります。着物や帯、カーテンやホールの緞帳、自動車や電車の座席シートなどを作る、創業150余年の川島織物セルコン(旧社名・川島織物)の本社とその工場群です。この川島織物セルコンを創業した人物が、川島甚兵衛です。

 

おばあちゃん子として育つ

川島甚兵衛は、文政2年(1819)に城端で上田屋甚助の嫡子、文次郎として生まれました。3歳で父親が亡くなり、その父親が行っていた絹織物業は、父の実兄が引き継ぎました。実兄の家族は文次郎や母親に対して冷たく接し、母子2人は肩身を狭くして過ごしました。やむなく文次郎と母親は、川島村(現在の南砺市城端)にあった母親の実家に身を寄せます。祖母は、この母子を温かく迎え入れました。しかしその母親とは、彼が9歳の時に死別します。両親がいなくなった文次郎は、その後祖母に大切に育てられることになります。

そのころから文次郎は、城端の東上町にあった油屋「福光屋」に出入りしていました。福光屋の主人は、「景気の悪い城端で肩身の狭い思いをしているくらいなら、いっそのこと京で修業を積み、一人前の商人となって郷里の連中を見返してやれ」と文次郎によく言いました。そして1831年、13歳の時にいよいよ京へ上ることを決断します。
 

「京」で商売の原点を学ぶ

京に到着した文次郎は、呉服商紅粉屋の中野久兵衛のもとに身を寄せました。寸暇を惜しんで働いた彼は、15歳という若さで金庫出納番を任されるなど、主人から信任を得ました。

しかし文次郎18歳の時、自分の親代わりであった店の主人が突然他界します。これによって他の奉公人は、次々と紅粉屋を去ります。しかし、主人を愛してやまなかった文次郎は、毎日衣料や野菜の行商などに勤しみ、主家の再興を願い続けました。「前途のある有望な若者を、このままウチで奉公させ続けるわけにはいかん」と判断した主家の遺族は、彼に他の奉公先へ行くことを勧めます。

その後文次郎は、蝋問屋での奉公や建設労働に従事するなど、商売のノウハウを得るべく一生懸命働きました。しかしどうしても上田屋の再興を願う気持ちが頭をもたげてきます。そんな折、たまたま募集のあった※悉皆屋の平丸屋嘉平に奉公する機会を得ます。そこで6年近く勤めた彼は、25歳の春に呉服悉皆業「上田屋」を開業し、独立します。以後、父親「甚助」の一文字をもらい、甚兵衛と改名し、同時に名字を母親の里である「川島村」にちなんで、「川島」姓を名乗るようになります。ちなみに川島には「甚兵衛杉」と呼ばれる、一本の杉の木があります。甚兵衛が京に向かう際、当時はまだ小さかった杉(甚兵衛杉)を見つめて、「俺が天下に名を馳せるのと、お前(杉)が大きく成長するのとでは、どちらが早いか競争だ!」と幼心にかたく誓ったといいます。
 

「大飢饉」をチャンスにする!

天保14年(1843)、甚兵衛は京都の中心地である室町に店を構えます。室町といえば、昔から京で商いをしている人が店を構える、まさに京都の経済の中心地でした。この時、世の中は大飢饉(天保の大飢饉)によって、商業経済が大混乱に陥っていました。甚兵衛は店の商いは子弟に任せて、仕入れと行商へとあちこち飛び歩き、停滞した物流経済を回復させようと努めました。

店としての態勢がかたまったことから、甚兵衛は14年ぶりに故郷の城端へ戻りました。この時には従妹に、自分で開発した六丈絹の織り方を伝授しましたが、これは後に城端や福光の絹織物産業発展の一端を担うこととなりました。

嘉永2年(1849)には、生涯の伴侶・あい(愛子)と結婚し、4年後には男児・辨次郎が誕生しました。このころは単にモノを仕入れて販売するだけではなく、自ら新しい製品を考案し、それを下請けの機屋で織らせるという「プロデューサー」的な能力も発揮していました。これは当時としては画期的なことでした。しかし積年の疲労が重なっていた甚兵衛は、突然病床に伏してしまいます。従業員には「上等の品物は蔵に仕舞っておけ。需要のあるものだけを限定して店に並べ、細々と商いを続けよ」と言い続けました。そして妻は、病床の甚兵衛に代わって、自ら外商をして家計を支えました。

この時期、世の中の金相場は、今までにないほどの高騰を見せており、小判を寝かせていた上田屋は、両替商に手を広げて大儲けしています。それでも、甚兵衛は決して豪遊したり、金を無駄遣いすることはありませんでした。常に倹約に励み、貧しい人たちに金を惜しみなく遣いました。仏のご加護を想い、貧民にお粥や、年始には餅をふるまいました。
 

早々と家督を譲り、信仰の道へ

病気が全快した甚兵衛は、大坂(現在の大阪)の商人と貿易業に乗り出します。直ちに店員を長崎に派遣して情報収集にあたるほか、京織物を販売したり、毛織物を輸入して販売したりしました。しかし当時の日本は鎖国体制が強固であり、幕府から命を狙われることもありました。

世は明治となり、都が江戸(東京)へ移ったことで、京都市中はすっかり意気消沈してしまいます。特に公家衆を得意先としていた西陣の織物業者は、その被害をまともに被りました。生活に困った織物業者は、粗悪品を多く流通させ、京の伝統を守り続けてきた「西陣織」の価値を、どん底まで下げてしまいます。こうした西陣の退廃に50歳となった甚兵衛は、後に二代目甚兵衛となる息子の辨次郎に早々に家督を譲り、妻とともに信仰の道に入りました。そして明治12年(1879)3月15日、甚兵衛は激動する世の中を見守りながら61年の生涯を閉じました。

京都にある川島織物セルコンの本社工場の入口に、一台の水車があります。この水車は旧城端町の「川島甚兵衛顕彰会」が、平成6年に寄付したものです。甚兵衛の母が生まれた川島村と隣り合う南砺市理休地区では、「水車の里」として、町内のあちこちで水車が見られます。創業者の甚兵衛を通じて、京都でも「城端」の文化がしっかり息づいています。
 


※•••着物の総合プロデュース業。


この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部

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