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【五箇山の隆盛を築いた男】山崎宗繁

2025.11.01

南砺市の上梨には、秘境のお酒として知られる「三笑楽」があります。もともとは、村人が毎日の晩酌や冠婚葬祭などで飲むものとして、秘境の里でこつこつと造られていたお酒でした。この三笑楽の味の向上を求めて研究に励み、販売拡大につとめたのが、山崎宗繁です。山崎は郡会議員、地元・平村の助役や村長を務めるなど、多くの村民から慕われました。

 

英語教育の必要性を感じる

山崎宗繁は、明治6年(1873)、東礪波郡平村上梨(現在の南砺市上梨)で、酒造業を営む山崎宗七の長男として生まれました。彼は、近くの平村立上梨教育小学校に進学し、その後は城端にあった濟美小学校(現在の南砺市立城端小学校)へ入学します。しかし、宗繁が楽しく学生生活を送っている最中に父が他界したため、すぐ実家へ戻って家業を継ぎます。宗繁14歳の時のことでした。ところが家業を継いだといっても、番頭が財産のほとんどを持ち出していたため、ほとんど無一文のような状態でした。

もともと本を読むことが好きで、向学心あふれる青年・山崎は、さらなる勉学の場を求めて東京へ出ます。東京の神田にあった普通文官講習会(※1)に積極的に参加、常に自己研鑽しました。その後上梨へ戻った山崎は、当時としては珍しく、英語の重要性に着目し、通信教育などで英語を独学しました。肌身離さず英和辞典を抱え、英単語の習得に励み、それは死ぬ間際まで続けていたといいます。当時は五箇山ではほとんど読まれることがなかった新聞も、知人からわざわざ送ってもらい、記事を隅から隅まで、広告も欠かさずに読み込むという熱心さでした。新聞を通して、世の中の流れをつかんだ彼は、その新聞から得た知識を、情報がなかなか入らない五箇山地域の人たちに話して回るなど、マスコミ的な役割も果たしていました。さらに山崎家には、『十八史略』や『日本外史』などの本や、人の演説などを書き写した手帖なども大切に残されています。
 

新しいことに関心を示す

山崎が青年期を過ごした明治半ば、五箇山には医者がいないという有様でした。常に不便さを感じていた彼は、自分で医学書を取り寄せて勉強し、明治25年には製薬免許を取得します。近隣から買い寄せた薬を自ら調合したほか、村に自生している薬草を調合し、村の病人たちに無償で分け与えました。間もなく上平村細島出身の中谷豊充が、下梨で病院を開業したため、五箇山で唯一薬の斡旋をしていた山崎は身を引きます。医学を専門的に学んだ中谷に、五箇山の医療を委ねたのです。

その後山崎は、五箇山の産業を活性化させるべく、当時家内工業だった養蚕や製糸の事業に尽くします。そもそも五箇山は、江戸時代は加賀藩の流刑地であり、ひそかに塩硝(※2)を造っていました。ところが明治に入ると、中国などから安い塩硝が輸入されたことで、塩硝が唯一の産業だった五箇山は壊滅的な打撃を受けます。そこで彼は、村人たちがひそかに飼育していた蚕に目をつけます。蚕の卵を養殖して販売する会社を興し、現在三笑楽を醸造している工場のそばに製糸工場を建て、大量生産を進めました。また電気は自家発電するなど、とても先進的な工場でもありました。
 

地元の名士として

明治13年に山崎の父・宗七によって創業された三笑楽は、砺波平野では最も標高の高い所に位置する酒蔵で、ブナが生い茂る林の下を流れる自然の地下水を利用して醸造され、味は端麗辛口なものでした。父とともに酒作りを始めた山崎は、お酒の味の向上を求めて研究を続けます。そして交通事情の悪さから、鮮度がうまく保たれなかった三笑楽の販路拡大に努めました。

さて山崎家は、代々加賀藩から村肝煎(※3)を命じられるなど、地元の名士として知られていました。宗七は、特産の繭の仲買商人として、岐阜の白川村まで手を広げたほか、金融業や酒造業を営むほどにまで隆盛しました。

事業欲が旺盛だった山崎は、大正に入ると漆の栽培にも取り組みます。多くの漆の苗木を取り寄せて栽培・研究をしますが、中国産の安い漆が入るようになると、壊滅的な打撃を受けたことから、結局挫折してしまいます。このように彼が手掛けた事業のうち、現在残っているものは酒造業のみとなりました。
 

地元の名士として

さて実業家として五箇山の産業を振興した山崎でしたが、明治40年から東礪波郡会議員を8年つとめ、大正5年に平村の助役から村長に就任しました。村長時代、ある式典で県知事が読むべき式辞を取り間違えて読んでしまいましたが、素知らぬ顔で降壇したというエピソードもあります。

そんな彼を慕って、山崎家には多くの人が押し寄せるなど、まさに地元のよき相談役でした。年貢の引き取りを全部受けたほか、生まれた子どもの名付け親になったり、身上相談に乗るなど、公私にわたって多忙を極めました。困った人を放っておけない性分の山崎は、時には自分の家の家財を売りに出すほか、先祖伝来の土地を売りに出すなどしました。貧しくて自立できなかった人に対しては、奉公人として住み込みで働いてもらったり、火急に金を要する時にはすぐお金を払うなどしました。

五箇山の産業の発展に尽くした山崎は、終戦間近の昭和17年5月6日に、村民が見守る中で他界します。まさに人のために尽くしたというにふさわしい、69年の生涯でした。
 


※1•••役人を養成する講習会。
※2•••煙の出る火薬。
※3•••村の世話役のような仕事。


この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部

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