2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
砺波市文化会館の正面広場の中央に、砺波市の名誉市民である片岡清一のブロンズ胸像があります。貧農の家に生まれながら精進努力し、砺波市と砺波広域圏の発展の礎を築いた片岡の足跡を後世に伝えたいと、平成6年に岡部昇栄市長(※1)が建立することを提案しました。片岡はとなみ野をはじめ、日本や中国を舞台に活躍した政治家で、その人となりは、まさに「清廉潔白」、本人の言葉を借りるなら「バカ正直」といえる純朴なものでした。
片岡清一は、明治44年(1911)7月23日、東礪波郡東野尻村苗加(現在の砺波市苗加)にて、父・野村覚右衛門と母・たかの9人兄弟の五男として生まれました。父は四反あまりの田んぼの耕作のほか、この地区では珍しいクリーニング屋を開業し、繁盛していました。ただ子沢山だったことから、生活はとても厳しく、彼が中学校へ進学できる見込みは、ほとんどありませんでした。
この苗加地区では、毎年秋に神社の秋祭りがあり、獅子舞が村内を練り歩きます。この獅子舞の稽古をしていた時、地元の名士・永田清治が小学6年生の彼に声を掛けます。「うちの手伝いをしてくれるなら、中学校へ出してあげよう」という申し出でした。夢のような話を聞き、早速両親を説得します。そしてついに永田家で居候することになり、彼は馬の世話役(※2)を任されました。昼間は学校へ、夕方から馬の世話や農作業の手伝い、夜は再び机に向かって勉強する、という生活を続けました。
県立礪波中学校(現在の県立砺波高校)、旧制第四高等学校(現在の金沢大学)、東京帝國大学法学部(現在の東京大学法学部)へ進んだ片岡は、在学中に高等試験行政科に合格し、内務省(戦後に自治省、現在の総務省)へ入省します。ちなみに片岡は、第四高等学校に入学の際、中学校長の口利きで、富山市にあった片岡家を継ぎ、野村姓から片岡姓に変わっています。
昭和10年4月、内務省に入省した片岡は、昭和12年の栃木県教育課長就任を振り出しに、戦前は内閣情報部書記官を、戦後は大阪府国家地方警察本部長や警視庁警備第一部長などを務めました。そして昭和30年10月、兵庫県警本部長に就任します。半年前の2月には、同郷の後輩で当時運輸官僚だった若狭得治が、神戸海運局長として神戸へ赴任していました。二人は幼い時から親交を深め、その関係は終生続きました。
ある冬のこと、郷里の砺波市議で幼い頃から知っていた川辺俊雄は、片岡を訪ねて神戸へ出かけました。この時、若狭を「メシを食べよう!」と呼び出し、夕食に出かけることとなりました。酒場で勢いづいていた片岡は、県警の警部補を連れて六甲山の展望台へ車を走らせます。彼らが展望台に着いたなり、片岡はいきなり警部補を怒鳴りつけます。「キミ、神戸の夜景は『百万ドルの夜景』というが、この電気は富山から送られてきてるんだ!キミたちは、富山に足を向けて寝られんがやぞ!」。神戸にいても、ずっと自分が育った故郷を忘れずにいたことを伝えるエピソードといえるでしょう。
昭和41年8月1日の夕方、川辺から電話が掛かってきます。「大井市長が病気で引退する。後任の市長に、貴方を満場一致で推薦することに決まった」という内容でした。続いて元県議で砺波市政界の実力者、岩川毅からも電話が掛かります。しかし片岡は、当時全日本交通安全協会の専務理事を務め、この仕事に打ち込むことを考えていたため、「交通安全の啓蒙に力を注ぎたい」という理由で断ります。ところが砺波の人たちからの就任要請は連日続き、それは軽井沢で静養していた協会長・津島壽一にまで及びます。「知事ならなりたいのだが・・・」、内務官僚出身者が悲願とする、知事への推薦をちらつかせ、ようやく片岡は市長選出馬を決意しました。
それから2ヵ月後の市長選挙で、無投票当選を果たした片岡は、出町の都市計画の推進、大砺波圏共同開発推進協議会の創立、市立体育館の建設、富山松下電器の誘致活動に力を尽くしました。
片岡が市長に就任して間もなく、衆議院富山二区の大物政治家、正力松太郎が議員勇退を発表、もう一人の大物・松村謙三もこれに続きます。この動きをみて、富山県知事・吉田実が次期総選挙に立候補を表明、片岡は念願だった県知事就任を目指します。しかし片岡は、はからずも松村の後継者に指名され、清廉潔白だった松村の政治姿勢を継承すべく、昭和44年12月に行われた衆議院議員総選挙に立候補します。結果は次点で落選。しかし次回の総選挙(昭和47年12月)で雪辱を果たした片岡は、中曽根康弘議員のもとで、衆議院議員としての活動を始めました。松村は中曽根の事務所を訪れ、「私の後継者である片岡君を、よろしく頼む」と懇願、松村を師と仰ぎ、尊敬していた中曽根は感激して、この申し出を受け入れました。
昭和62年12月に発足した竹下改造内閣で、片岡は郵政大臣に推挙されます。「大臣ポストはカネで決まる」といわれますが、彼はそういうことには無縁でした。選挙資金を集めることに関心を示さず、秘書があちこち駆けずり回って集めるという始末でした。秘書は、「カネを集めることは大変なんですよ」と詰め寄ると、片岡は、「派手なことをするから、カネがかかるのだ!」と言って聞き入れませんでした。常に質素な議員活動にこだわり、カネで物事を動かすこと(利益誘導)に対しては、ことのほか厳しい考えを持っていました。こうした彼の政治姿勢に人々は共鳴し、選挙では多くの人が手弁当で応援しました。それゆえ大臣に就任した際、となみ野の人々は大いに喜びました。
郵政大臣を辞した時、片岡は後援会長に「もう齢78になり、最近では人の名前を忘れがちになってきた。政治家としては致命的だ。今度の総選挙には出馬せず、勇退したい」と申し出ます。後年「今でも知事になりたいか?」と尋ねられた片岡は、「今でもなりたい」と洩らします。青年時代に猛勉強していた時から、「日本の農業を豊かにしたい」と思い続けていた片岡が、議員を辞めてからも、知事の仕事に夢を見続けていたことを示しています。
平成11年2月26日、片岡は88年の「バカ正直」人生に幕をおろします。平成13年には砺波郷土資料館で「片岡清一展」が開催され、生前を懐かしむ人たちが大勢訪れ、故人を偲びました。
※1•••片岡市長時代に収入役を務める。
※2•••当時馬は農作業に欠かせないもので、限られた人だけが持っていた。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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