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【子供に「理科」の面白さを伝えたかった男】 堀 七蔵

2025.11.01

みなさんは小学生の時、どんな授業が好きでしたか?たとえば「理科」についていうなら、「教科書を読むのは嫌いだけど、実験は面白かった」という思い出はありませんか?堀七蔵は、観察や実験などを重視した理科教育を提唱し、実際子どもが感じる疑問に答えていくという授業スタイルを、理科の教育界に広めた人物です。現在でも、「わが国の理科教育の先覚者」として高く評価されています。

 

「蔵を七つ建てるような男」に

堀七蔵は、明治19年(1886)3月30日に西礪波郡西太美村才川七(現在の南砺市才川七)で生まれました。堀が生まれた時は大変な難産で、産声も出なかったと伝えられています。彼の名前は、出生届を出す際に、堀家の七番目の子どもだったことから、役場の職員が名付けました。父は、「いい名前だ。蔵を七つも建てるようになるぞ」と話し、彼の成長をとても楽しみにしていました。

明治25年の春、6歳になった堀は、近くの西太美小学校へ通うことになります。しかし入学式を終えた後、先生から「明日から学校を休みにする」と言われ、「思う存分、勉強ができる!」と楽しみにしていた堀はがっかりします。実はこの小学校、古い水車小屋を建て直して作られていたため、机を並べて勉強する場所がなく、上級生しか入ることができなかったのです。「何とか教室を確保しなければ」、学校を開ける場所を探して東奔西走した校長は、半年後にようやく近くの寺の御堂を使って授業をする目途をつけました。この日をずっと待ち続けていた堀は、毎朝一番先にお寺へ出かけ、熱心に勉学に励みました。
 

「エビ」と「白砂糖」

こうして小学校(4年制)を卒業した堀は、もっと勉強をしたいと両親を説得し、福光の高等小学校に進学しました。彼は才川七の自宅から福光までの4キロ近くの道のりを、毎日休まず通学しました。しかし堀にとっては、その時間はとても楽しい時間でした。晴れた日には、通学途中に友だちと「なぞなぞ遊び」ができたからです。

ある日、友だちは「エビは魚の仲間か、貝の仲間か?」と質問します。一同答えが分からず、「骨がないから貝だ」、「いやエビは上手く泳ぐが、貝は歩くだけなので、やはり魚だ」などと思いついたことを言い合いながら、とうとう学校に着いてしまいます。堀はすぐに先生をつかまえて尋ねますが、誰も答えられません。どうしても答えを知りたい堀は、校長先生に聞きにいきます。校長は、「七蔵、エビは『甲殻類』の仲間に入るが、詳しくは図鑑にも書いていない」と答えます。この時校長は、尋ねた疑問は自分で解くようにと諭し、堀は自力で解決することを誓います。

教師の道を目指した堀は、明治33年に富山師範学校准教員講習所(現在の富山大学教育学部、6ヶ月間)に入所し、寮で生活しながら専門の勉強に打ち込みました。6月末のある日、寮生同士で雑談している中で、「白砂糖を熱するとどうなるか?」という話題が飛び出しました。興味を示した堀は、露天商がカルメラ焼きを作っていたことを思い出し、「白砂糖を熱すると飴になるよ」と自信を持って答えます。しかし友人が「きっと黒い炭になるはずだ!」と堀に反論します。そこで実際に試してみようということとなり、小遣いを出し合って砂糖を買い、早速実験を試みました。鉄鍋の中に砂糖を入れてしばらく熱していくと、砂糖が溶けて不透明な飴のようになってきました。「僕の言った通り、飴になったじゃないか!」、堀は得意満面に答えます。ところがなおも熱し続けていくと、砂糖は黒い炭になってしまいました。

この経験から、堀は正確に物事の原理を確かめずに、いい加減な考えで結論を導いたことを恥じます。堀が目指した教育の原点は、自分が痛い目に遭った体験から導かれたものでした。

明治38年3月、富山師範学校を卒業した堀は、戸出尋常小学校の訓導(教師)として働きます。しかしもっと学びたいと思っていた堀は、1年後に東京高等師範学校数物化学科(現在の筑波大学)に入学し、勉学に励むことになります。受験者は24人中、合格者は堀1人にとどまりました。
 

「疑問は研究の母」

東京高等師範学校を卒業した明治43年、東京女子高等師範学校附属小学校(現在のお茶の水女子大学)に赴任した堀は、授業で生徒と向き合っているうちに、生徒の理科に対する興味が乏しいことが気になってきました。そこで試しに黒板の横に質問ノートを常置し、子どもたちが思いついた疑問をどんどん記入させました。この中で理科に関するものは堀自身が答え、それ以外の質問は、食事の後にある20分ほどの時間を使って、堀と生徒の相互の話し合いで答えを出しました。

こうした取り組みがもとになって、堀は『(児童の疑問)理科智嚢(※1)』や『(児童の疑問)日常の化学』など、生徒の疑問を取り上げた科学読物をまとめました。当時そういった児童用の図書は少なく、全国の小・中学生、教師にも愛読されました。

大正7年、堀は全国の先生たちと理科教育のための研究組織を作ることに協力し、全国各地で理科の授業の講習会や研究会を開き、自分の実践や研究に基づいた理科の指導法を広めることに努めます。そしてこれが全国の理科の授業マニュアルとなりました。
 

著作は二百冊以上!

その後、堀は東京女子高等師範学校附属幼稚園や小学校の主事(校長)として子どもたちと関わります。昭和7年、文部省(現在の文部科学省)から教科書調査員に任命され、小学校理科の教科書の編纂にあたっている中で終戦を迎えます。戦後は、東京女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学)名誉教授、専修大学教授、日本女子体育大学名誉教授を歴任します。

堀は二百冊以上の著書を残し、その多くは国立国会図書館に寄贈されましたが、一部は富山市の県教育記念館にも保存されました。理科の関係書籍はもちろん、「給食作業」、「児童疑問にあらわれた性意識の発達」など、児童の教育心理学についての本も数多く出版しています。

昭和53年11月18日に92歳でこの世を去った堀は、まさに理科の教員一筋というにふさわしい人生を終えました。決して怒ることのなかったという、好好爺(※2)でもありました。
 


※1•••知恵袋の意。
※2•••善意にあふれた老人。


この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部

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