2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
JR城端線・福野駅そばに、大きな鉄骨のクレーンがそびえた工場が建っています。橋梁メーカー大手企業である、川田工業の富山工場です。川田工業は瀬戸大橋や明石海峡大橋をはじめ、日本の多くの橋梁を提供してきた会社として、業界内では不動の地位を築いています。最近では「人間型ロボット」の開発も手がけ、新たな分野への技術革新を目指して奮闘しています。この川田工業を創立した人物が、川田忠太郎です。
川田忠太郎は、明治20年 (1887)に栃木県安蘇郡葛生町(現在の栃木県佐野市)で、刀鍛冶職人の家に生まれました。葛生は栃木県南西部に位置し、江戸時代から石灰の産地として知られ、大正時代にはドロマイト(※1)の大鉱床も発見されるなど、今日まで全国有数の生産量を誇っています。
川田の母方の祖父は広瀬金四郎貞包という、野州烏山藩(現在の栃木県の一部)の御番鍛冶でした。御番鍛冶は、藩から禄(※2)をもらうことができたほか、苗字帯刀(※3)が許されました。もともと川田家は、地域の豪農として知られ、彼は7歳頃から10年ほど、祖父のそばで鍛冶職人としての技を学びました。
川田は祖父の鍛冶場が好きで、毎日のように祖父を訪ねては手元を助けていました。祖父も孫・忠太郎と一緒に仕事することを、ことのほか楽しみにしていました。川田の遊び場は「野山」ではなく、祖父の鍛冶場だったのです。
青年期になった川田は、村の山向こうにあった古河鉱山(現在の古河機械金属)足尾鉱業所にあった、マウンテンドリルを修理する工場に勤めました。足尾鉱山は、当時銅の産出量日本一を誇り、まさに日本の産業を支える鉱山でした。
ここで川田は、銅の掘削中に折れてしまった鑿(※4)や、短くなってしまった鑿を鍛接する作業に取り組みました。ドイツ人教官技師の指導で、約百名近い訓練生が作業をしていましたが、川田の鍛接は百本に一本の失敗もなかったほどの精巧なもので、教官もその技量に大変驚いたといいます。しかし、「自分は鍛冶職人だ」とプライドを持ち続けていた川田は、決して今の仕事に満足していたわけではありませんでした。
足尾の工場を退社した川田は、鍛冶職人の道を極めるという信念のもと、妻のいとと共に住む場所を転々とする生活を続けました。足尾を後にした川田の消息は知る人が少なく、「那須へ行った」とか、「富山へ行った」などという噂だけが漏れ伝わっていました。
そんな川田夫妻が最後に行き着いた所は、妻が生まれ育った福野でした。すでに二人とも齢40を過ぎていて、実に約20年間も妻と4人の子どもと一緒に放浪生活を続けていたのです。
大正11年5月2日、川田は福野で川田鉄工所を創立します。川田が鉄を焼くための炉(火床)に火を点じ、妻のいとが鞴(※5)を押したという、細々としたスタートでした。そして大正末期には、庄川上流の平村・祖山地内に工場を建て、祖山発電所の建設工事を請け負い、職人30数人を雇いました。
昭和2年の春、いとの従兄で福野にいた栗山芳太郎と政太郎が、「福野の駅前に、ちょうど良い土地の売り物が出ているので、そこを買って家を建てたらどうか」と話を持ち込みます。自分たちが思っていたよりも良い土地だったので、川田は「よろしく頼む」と即答します。その翌年、祖山から福野へ戻り、しばらく政太郎の裏店を借りて、仮住まいしながら事業を続けます。購入した駅前の土地の半分に住宅を、残りの土地に工場を建てました。
福野で本格的な工場を持った川田は、早速刃物を主体にした町鍛冶(野鍛冶)を始めます。鍛治をしたかった川田は大変喜びますが、知人や得意先があったわけではなく、顧客の獲得に東奔西走するなど苦労します。そして、たまたま栗山の向かいで鍛冶屋を営んでいた杉木鉄工所の社長と親しくなり、そこから徐々に仕事を分けてもらうようになりました。これがきっかけで、佐藤組(のちの佐藤工業)と組んで信濃川作業現場での鉄筋、鉄骨三千トン余りの工事を請け負ったほか、立山重工業や佐賀造船からも受注を獲得、川田の技術は世間に認知されるようになりました。昭和15年に北陸産業株式会社を設立、昭和22年には北陸車輌に社名変更され、その5年後に現在の社名となりました。
鍛冶職人であることに、ずっと誇りを持ち続けていた川田は、息子たちにも、「俺は刀鍛冶の出だから、鋼の溶接には慣れている。鋼の鍛え方、接ぎ方の中でも、和鋼である刀は最も難しいので、それで鍛えられてきたのだから、洋鋼だって同じこと、他の連中がいくら夢中になっても、俺の接いだのにはかなわなかった。そうした接ぎ方をお前達にだけでも教えておいてやろうと思った」と語って聞かせました。鉄骨や橋梁、製缶などのように、焼かずにたたいて物を作ることは「外道(※6)」であると、絶えず口にしていました。
また川田は、実に頭の良い人物でした。太っ腹な性格である一方、とても記憶力がよく、また数字(暗算)にも明るい人物でした。客に出す見積りや、職人に支払う給料でも、そろばんを使わずにすべて暗算で計算したというエピソードも残っています。
ちなみに川田には4人の子どもがいました。三男は彼の後に社長に就いた川田忠雄、四男は旧福野町議から富山県議となった川田謹治です。忠雄は田舎の一鉄工所だった川田鉄工所を、日本を代表する橋梁メーカーに育て上げました。また謹治は、もともと営業部門担当の副社長をしていましたが、人の世話が好きだったという性分が手伝い、政治家へ転身しました。後に県議会議長に就いた謹治は、松村謙三代議士に心酔し、清廉な政治を心掛けました。
川田忠太郎は愛息・忠雄が、父の出身地である栃木県の野崎に工場を建てる矢先の昭和34年3月17日、70年の天寿を全うしました。
※1•••建築資材や窯業原料として用いられる無職の炭酸塩鉱物。
※2•••給与。
※3•••名字を名乗り、太刀を帯びること。
※4•••穴を開ける道具。
※5•••火をおこすための簡単な送風装置。
※6•••道理に背く考え、邪道。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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