2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
その昔、旧利賀村は、まさに「陸の孤島」のような村でした。冬になると町へ通じる道が寸断され、雪深い中で一冬を明かすという生活を余儀なくされました。こうした利賀の窮状を救うべく、立ち上がった人物が須河信一です。利賀行政センター前にある須河の銅像は、村の功労者としての功績を称え、昭和29年に顕彰会によって建てられました。
須河信一は、明治28年(1895)11月13日、東礪波郡利賀村坂上(現在の南砺市利賀村坂上)で生まれました。須河家はもともと地方屈指の旧家で、昔から村の重鎮として畏敬されていました。幼い頃から美しい山々に囲まれた、自然豊かなところで育った須河少年は、負けん気が強く、正義感あふれる少年でした。
利賀村役場に勤めるようになった須河は、村の仕事をしているうちに、「この不便な村を何とかしなければ、我々の生活は一向に良くならない」と真剣に考えます。須河は村の発展をはかるべく、自学自習を続けますが、自学で政治の仕組みを学ぶのは限界だと考え、明治大学自治科へ入学して、法律・経済・政治・社会を学ぶことを決意し、上京します。
大学生活を終えて帰郷した須河は、村民の期待を背負って利賀村長に推挙されます。大正14年10月5日、若干29歳の時でした。須河は早速、東京で学んできたことを生かして、利賀の振興をはかる政策を実行に移します。昭和2年には、伝染病院の新設(※1)をはじめ、多額を投じて町村電話を架設したほか、診療所の開設、各地区での分教場(学校)の設置、村から井波・八尾へ抜ける自動車道の建設などに取り組みました。
数々の実績を残した須河は、村長を通算4期つとめました。そして昭和17年から利賀村議会議員を2期つとめ、戦後の昭和21年10月からは公選初の利賀村議会議長に就任します。同時に初代公選村長に高田耕を推挙し、利賀村をひとつにまとめ、村政を支えました。
須河村長時代、最も特筆されることといえば、各集落が所有していた森林(※2)の統一ならびに整理です。明治末頃から村の基本財産を作る手段として、所有者を一本化することが、村最大の政治課題となっていました。彼は村民の生活を向上させようと、この統一を果敢に推し進めます。地主連中は須河の方針に異を唱えますが、粘り強い交渉の末、ついに県下最大の村有林を持つまでに到りました。
ところで昭和10年12月、利賀村に越中木材工業購買販売利用組合が設立されています。当時の村長・須河が代表となり、村を挙げて設立された木材加工会社でした。県境近くの水無付近で伐採されたブナ、ナラ、トチなどの広葉樹の原木を加工し、製材品やフローリング、農具の柄などを作る会社でした。最盛期には百人近くが働き、若い社員は秋田まで修業に派遣されました。須河はそれまで行われていた流木産業(※3)を改め、利賀村内で原木を加工することを考えたのです。理由としては、下流の小牧にダムが築造され、木を流せなくなったことと、村に職場を作ることで過疎化を防ぐ目的がありました。この工場は後に三興株式会社に譲渡され、大建木材工業株式会社(現在の大建工業)に引き継がれます。大建工業の成長に大きな役割を果たした工場は、昭和29年4月に地元の大當興業へ譲渡されています。
そもそも須河家は、利賀村をはじめ近隣に山林三万町歩以上を所有していました。これが戦争によって木材の価格が五百倍に跳ね上がったことから、須河は県内きっての木材王となります。
昭和21年4月、戦後初の衆議院選挙が行われました。須河は周囲の反対を押して、無所属で出馬します。同じ選挙区からは、井波の綿貫佐民、山野の菊野博、高瀬の岩倉政治も立候補し、四勢力に分れての激しい選挙となりました。須河は7249票を獲得するものの、残念な結果に終わりました。
須河はこれに飽き足らず、翌年行われた県議会議員選挙に、東礪波郡選挙区(定員5名)から出馬します。日本自由党の公認を受けていたこと、また前回出馬した衆議院選挙によって高い知名度を誇ったことから、トップ当選を果たします。以後連続3回当選を果たした彼は、富山県政を動かす大物政治家だった石坂豊一をはじめ、湊栄吉、内藤隆などと深い親交を持ちます。また後には城端出身の山田伊作と交流を深めるなど、まさに「飛ぶ鳥を落とす勢い」でした。
富山市の中心部である総曲輪に北信林業を構えた須河は、政治家・経営者として忙しく飛び回ります。そんな中、昭和26年5月から1年6ヶ月間、富山県議会議長をつとめ、並み居る先輩議員に先駆けて議長に就任しました。
須河は、昭和34年に行われた県議選に、4期目を目指して出馬しますが敗れてしまいます。そして静かに政治の表舞台から去ります。須河は、政治と故郷の発展のために多くの私財を投じましたが、折りしも好況だった木炭景気も、燃料革命のあおりをまともに受け、関係会社は苦境に陥ります。そしてついに、自分が手塩にかけて育てた会社である北信林業までもが、解散するに至りました。
須河は、公私にわたって大変厳しい人物だったことで知られています。間違っていると思えば、相手が誰であっても大声で怒鳴りつけることもあったといいます。例えば、元首相・犬養毅に対しても、自分の主張が通らなかったといって殴ったというエピソードが残っています。このように須河は、負けず嫌いと激しい気性で、現在の利賀村の基盤を築きました。また彼は常々、「人生は勇気と知恵だ」と周囲に話していました。
昭和45年頃から、生まれ故郷の利賀村に戻った須河は、娘夫婦に世話になりながら悠々自適な生活を送りました。近所を散歩したり、新聞を読みふけっていたりという、のんびりとした生活を送りました。そして昭和50年11月16日、須河信一は静かに80年の生涯を閉じました。
※1•••役場庁舎として使用していた。
※2•••当時は部落有林といった。
※3•••伐採した原木を利賀村から庄川を通じて流し、下流で集積した後に加工する。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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