2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
平成15年6月1日、日本を代表する運送会社・トナミ運輸が、創立60周年を迎えました。 現在では運送事業はもちろん、インターネット事業にも手を広げ、総合物流企業として業界をリードしています。このトナミ運輸を、田舎の一運送会社から全国規模の会社へ大きく飛躍させるきっかけを作った人物が、綿貫榮です。
綿貫榮は、明治13年(1880)4月20日に東礪波郡井波町(現在の南砺市井波)で、神官・綿貫義門の次男として生まれました。綿貫家は代々井波八幡宮など、いくつかの神社の神職をつとめる名家でしたが、内情は実兄を大学に出すことで精一杯という財政状況でした。
兄の学費を稼ぐために働かざるを得なかった綿貫は、「なにくそ!」と奮起し、公務員(※1)や教員を目指して、毎日勉強に勤しみました。そして15歳の時、それまでの苦学力行が認められて、井波小学校の代用教員に任命されます。その後は高等准教員となり、上新川郡上滝(現在の富山市上滝)や富山市の小学校などで教鞭を執りました。この時綿貫は、「東京に行け。こんな田舎に居てはダメだ」とよく話しました。東京に出れば多くの人に出会えるというのが理由でした。また20歳の時には教師に従事する傍ら、裁判所書記を目指して受験、一回目で合格を果たします。教師としてこれ以上の出世が見込めないと判断した綿貫は、24歳の時に約10年つとめた教師生活に終止符を打ち、出町裁判所の書記官に転身します。しかしそれも長くは続かず、転職を繰り返した後、県職員として働きはじめます。
綿貫の兄・豊次郎は國學院(現在の國學院大學)を卒業後、皇典講究所(※2)滋賀県分所で講師をしていました。ところが明治35年に29歳という若さで他界、22歳だった綿貫は県職員と兼務で神官職を引き継ぐことなりました。
公務員生活にあまりなじめなかった綿貫は、ついに30歳で県職員を退職、実業家の道を歩き始めます。そんな彼がまず着手したのは、砺波地方における鉄道事業でした。もともと地元民から鉄道敷設を望む声が挙がっていたことや、庄川を背景とする木材輸送などの増加に対する期待から、採算は充分になし得るとの判断がありました。綿貫は地元の財界人らと礪波鉄道(※3)を設立、主に鉄道用地の買収を担当します。
さて大正3年に第一次世界大戦が勃発、これに伴い鉄相場が大幅に高騰します。ちょうどこの頃、城端と平の間に、石灰石を運ぶ目的で使われていた鉄製の索道(※4)が、雨ざらしの状態で放置されていました。「原鉄を捨てておくのはもったいない」と考えた綿貫は、これらの索道施設を払い下げて欲しいと所有者に申し出ます。そして実際購入して調べてみると、鉄材の中に特殊鋼らしいものが含まれていることがわかりました。思いもかけず大金を手にした綿貫は、それを元手に庄川の湛水予定地(小牧、祖山、御母衣などの各ダム建設予定地)などの土地の買収(投機買い)を行います。
この後綿貫は金沢へ進出、『金沢新報』の経営参画、能登鉄道(後の北陸鉄道能登線、現在は廃線)の建設協力、映画館の経営など、多角的に事業を展開していきました。
綿貫は昭和6年から同21年まで、また昭和27年から29年まで、旧井波町長を長くつとめ、水利疎通や庄川沿岸道路の開通(現在の国道156号線)、企業の誘致などに力を注ぎます。とくに水利疎通には熱心に取り組み、町民に水の不自由がない生活を確保しました。
また綿貫は、呉羽紡績(現在の東洋紡績)井波工場を誘致しましたが、この時、社長の伊藤忠兵衛は、「あなたの『綿貫』という名前は、紡績とは非常に縁のある名前だ、気に入った」とつぶやき、彼の名前に託して進出を認めたという逸話が残されています。
また井波は、伝統的な欄間彫りを中心とする工芸の町ですが、綿貫は日展の代表的作家である山崎覚太郎(富山市出身)を招き、後進工芸家の指導や育成につとめました。さらには「井波芸者」を育成するべく、金沢の東廓から唄や踊りの家元を招いて、彼女たちの芸に一段と磨きをかけるという業績も残しています。
大正15年2月、綿貫の長女・かずは南佐民と結婚します。南はのちに綿貫家を継ぎ、綿貫佐民と名乗ります。佐民はもともと淡路島の出身ですが、このころ日本電力の技師として青島(現在の砺波市庄川町青島)に赴任していました。綿貫は佐民に対して、人の心を巧みにつかむ男だと惚れ込み、自分が大事に育てた娘を嫁がせました。佐民は用地買収のために地元の農家を訪れる時、最初に仏壇に香をたき、その後に話を切り出すなど、となみ野の人々の心を捉えました。
昭和18年6月、砺波地域の運送会社11社が戦時統合し、礪波運輸(昭和37年にトナミ運輸と社名変更)が設立されました。初代社長には加越商事の社長・佐民が就任、悪路と雪に立ち向かいました。もともと加越商事は、損害保険の代理店業務を営む目的で設立されましたが、後は利賀の木炭を砺波や高岡に運ぶ「山行便」を主な事業としました。
佐民は、戦後初の総選挙で衆議院議員となり、新しい日本を作ろうと奮起します。しかし本人も気付かぬうちに体は病魔に侵されつつあり、昭和25年9月に佐民は54歳という若さで他界します。「自分の意志を継いでくれる」と、佐民に惚れ込んでいた綿貫はとてもがっかりします。
もともと礪波運輸は、いくつかの運送会社の集合体。佐民というカリスマを失ったことで、会社分裂という危険をはらんでいました。そんな状況下で、次期社長として白羽の矢を立てられたのが、齢70になる綿貫でした。金沢にあった別宅を本拠として、様々な事業に取り組んでいた綿貫は、「東の傑物」といわれた北大路魯山人とならび、「西の傑物」として、その名を全国にとどろかせていました。70歳という年齢を感じさせない、矍鑠然(※5)としていた綿貫は、富山県の一地方の運送会社だった礪波運輸の経営には、ほとんど関心を示しませんでした。
しかし綿貫は、「(社長を)引き受けたからには、トナミを天下一の運送会社にする!」と奮起、念願の東海道進出を果たします。北陸と関西・中京・東京を三角形で結ぶという大きな構想を描き、その実現に奔走しました。ただ高齢には勝てず、後継者に愛孫・民輔を充て、昭和30年5月に経営の第一線から退きます。
「策略家」、「黒幕的存在」、「智者」、「今太閤」、はたまた「惑星」など、様々に形容された綿貫榮は、昭和40年3月7日、波瀾に満ちた84年の人生を閉じました。
※1•••当時は官吏といった。
※2•••皇典研究・神職養成機関。
※3•••後の加越能鉄道・加越線。昭和47年廃止。
※4•••ロープーウェー。
※5•••歳をとっても丈夫で元気のいいさま。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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