2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
みなさん、国語の授業で「源氏物語」を勉強した思い出はありませんか? 近年これを題材にした「あさきゆめみし」が、漫画や宝塚歌劇などで紹介されたことから、「源氏物語」に関心を深めた人もきっといらっしゃることだと思います。さてこの「源氏物語」をめぐって、学会に議論を巻き起こした人物が、国文学者・武田宗俊です。
武田宗俊は、明治36年(1903)1月25日に東礪波郡南山見村院瀬見(現在の南砺市院瀬見)で、農業を営む武田助蔵の次男として生まれました。近所でも勉強熱心だと評判だった父は、学問を修めることを大切に考え、宗俊は幼い頃から「うぬぼれが強く、人の真似をすることが嫌い」で、母親から「あまのじゃく」だとよく叱られていました。
武田が国文学の道へ進むきっかけとなったのは、小学校の国語の先生からの一言でした。「作文が上手くなりたいなら、名文を読むことが一番大切だ。『源氏物語』や『枕草子』、『平家物語』や『徒然草』などは日本の名文である」、その言葉に影響を受けた彼は、自転車で金沢の本屋へ出かけて、それらの名著を買い求めました。彼の部屋には、そうして集めた日本の名著や書き取ったノートが所狭しと並び、全ての本には彼が読んだことを示す鉛筆の跡がついていました。あまりにも本ばかりを読んでいるので、母親が心配して注意することも度々でした。さらに彼は、当時珍しいラジオを聴いて英語を学び、『イソップ物語』を読んだり、この地区では購読者がなかった英字新聞を読んでいました。
小学校卒業後は、自分の勉学を深めるために、新潟県の禅宗寺へ行き、その2年後には兵庫県西宮市に出て、新聞販売店で働きながら、小学校準教員の資格取得を目指しました。合格後は富山へ帰郷し、県立神通中学校(現在の県立富山中部高校)で教鞭を執ったほか、秋田高等女学校(現在の県立秋田北高校)や大阪の樟蔭女子専門学校(現在の大阪樟蔭女子大学)で教授をつとめました。
そして武田が36歳の時、樟蔭女子専門学校を退職し、東北大学文学部に専攻生として入学、二年間国文学とドイツ文芸学を専攻しました。武田は、ドイツ文芸学を通じて、「文芸の本質は何か」を学び、シェークスピアの楽しさにも触れていきました。
武田のライフワークといえば、「源氏物語」の成立論です。昭和25年、福島大学教授だった武田は、『文学』6・7月の両号内で、「源氏物語の最初の形態」という論文を発表します。武田は全54帖から成る『源氏物語』について、今のような配列順序で執筆されておらず、最初にいくつかの巻が書かれた後に、ほかの巻が挿入されて完成したと考えたのです。
しかし武田の唱えた説に対して、今までの学会における定説※が大きく崩れるものだとして、多くの反論が寄せられました。しかし武田はこれに乗じた反論は一切しませんでした。ただ、「今、私の説に反対している人は、あとでその始末をつけるのに苦労するだろうね」と周囲に語り、自説に強い自信と信念を持っていました。まだこの論文を発表する前の無名だった頃にも、「これから源氏を研究しようとする人は、必ず私の門をくぐらねばならなくなるよ」とも話していました。
武田は『源氏物語』研究の集大成として、4年後には『源氏物語の研究』を発表、この功績を称えて、昭和35年に法政大学より文学博士の学位を授与されました。
さて武田は『源氏物語』の本の表紙がボロボロになるまで、繰り返し読みこみ、どんなに忙しくても、寝る前には必ず目を通しました。枕元にはメモ帳を常備し、気付いたことや思いついたことを手当たり次第にメモしました。こうして武田の「源氏物語論」が熟成されていったのでした。
昭和35年8月発行の『井波町報』に、地元・南山見で行われた「博士を囲む座談会」の模様が紹介されています。この中で武田は、「文学は、世の中を立派に生きていく方法を教えてくれる。文学は『面白くないもの』といわれるが、それは文学としての価値がないということだ。人間が一番関心あるのは、生きていくことと、男女の関係で、これらを扱った作品は『源氏物語』と『平家物語』である。文学者は忠義とか道徳を主張するというより、いかに面白く社会に受け入れられるかを考えて創作している。その作品が健全な社会をつかんだものは健全な文学となり、堕落したものは堕落した文学となる。まず文学を読んで人間の生き方を知り、世間を知ることが大切である」と話しています。
毎年行われた座談会には多くの住民が集まり、武田の講義に耳を傾けました。住民は一年に一度の座談会のために、それぞれ「宿題」を準備して会場に集まっていました。「地元に伝わる古文書が読めない」という質問に対しては、その場でわかりやすく解釈して披露しました。また武田が即答できない難問が寄せられた時には、「来年までの私の宿題にしてください」と答え、翌年にはきちんとした答えを持ちかえってきました。自分の気付かない視点での質問が寄せられることから、武田はこの座談会をとても楽しみにしていました。
「文学」と共に生きてきた武田でしたが、他方音楽にも深い造詣を持っていました。尺八の名手だったほか、ハーモニカやオルガンなども嗜みましたが、教え子に披露することはありませんでした。また当時は高価だった蓄音機を買い、よくクラシックを鑑賞しました。ベートーベンの交響曲第五番「運命」を、涙を流しながらよく聴き入っていたといいます。
講義では要点がよく整理された話を展開し、説明にはムダがありませんでした。字も美しく、武田が書いた手紙を手本に字の練習をしていた人も多くいました。
昭和42年、武田は64歳の時に福島大学を退官し、青山学院大学文学部に教授として招かれ、7年間の教員生活を送ります。その間に前立腺の手術を受け、歩くのが不自由な身になりました。しかし年一度の墓参りは欠かさず、亡くなる一年前にも井波市街から院瀬見の自宅まで妻と同伴で歩いて訪れています。
そして「源氏物語」が好きだった武田宗俊は、昭和55年6月20日、川崎の自宅にて静かに息を引き取ります。享年77歳でした。
武田の生家の近くには、墓と胸像が建てられています。武田は亡くなる前、「死んだらここに(自分を)埋めてくれ」と話し、持っていた杖を地面に差し込みました。その遺言にしたがって建てられた墓には、今でも全国から文学者や国語の先生がひっそりと訪れています。
※•••江戸時代に活躍した本居宣長が発表して以来、学会では常識となっていた。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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