2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
五箇山は大正初めまで、病院はもちろん、医者もいないという地域でした。急病人が出た時には、峠を下りた城端まで出なければならず、その道中で命を落とした人も多くいました。そんな窮状を見て「五箇山に病院を作り、医者を置かなければならない」と一人の男が立ち上がりました。旧上平村出身の中谷豊充は、常に患者との信頼関係を大切にする姿勢をとり、村民から大変慕われました。チョビヒゲをたくわえていた、まさに「赤ひげ先生」でした。
中谷豊充は、明治18年(1885)6月5日に東礪波郡上平村細島(現在の南砺市細島)で、漢方医だった中谷豊平の長男として生まれました。父は五箇山に生えている植物を使って薬を調合し、病を患った人に分け与えるなどしていて、村人からとても慕われていました。さらには天候、まじない、農業や養蚕などについても多博だったことから、絶えず村人が訪れていました。
そして、幼少期の中谷はとても優しい性格で、植物や昆虫などをじっと見つめているような少年でした。村人から慕われる父親の背中を見て育ったせいか、医者に憧れます。
中谷は細島にあった小学校に入学、その後は城端の高等小学校へ進学し、明治32年には県立高岡中学校(現在の県立高岡高校)に入学します。ここで中谷にとっては「無二の親友」となる人物に出会います。旧福光町出身で、のちに衆議院議員となる松村謙三です。松村は中谷より2年先輩でしたが、気の合う二人はよく語り合い、城端に下宿していた中谷は、高岡から福光まで松村と歩き通したこともありました。松村はこの後、早稲田大学に進学、中谷は金沢医学専門学校(現在の金沢大学医学部)に進学し、いよいよ医師の道を歩み出します。
大正5年、中谷は新米医師として郷里に戻ってきます。無医村だった五箇山に、近代医学を学んだ若い青年医がやってきたということで、両親・家族はもちろん、五箇山の人々は大変喜びました。彼は早速下梨にあった民家を借りて改装し、「中谷医院」を開業、玄関を入ると待合室、そして診療室兼薬局、居間という簡単なものでした。
中谷の専門は内科でしたが、外科や神経科といった専門外の分野の患者まで、丁寧に診察しました。常に笑顔で、静かに落ち着いて患者に語りかけ、村民の信望を高めていきました。開業した翌年には、上平の人々の懇望に応えて、細島の生家でも週一度診療を行うようになりました。中谷は、当時五箇山では誰も持っていなかった自転車で往診していました。
村民との強い信頼関係で結ばれていた中谷は、昭和5年に下梨小学校の学校医に任命されました。同時に東中江、皆葎、西赤尾の各小学校の学校医も委嘱されます。これは、昭和20年に中谷が亡くなるまで続きます。彼は小学生に、洗髪や入浴などの生活衛生の指導を行いました。
大正14年2月、上平村の真木から下梨の中谷のもとへ、「産気づいたようなので、すぐ来てほしい」という一報が入ります。しかし、外は猛吹雪で、積雪は2メートルを超えるという気候条件。黙ってその知らせを聞いていた中谷は、「真木へ行く」と出迎えの人に静かな口調で話し、出発します。ここまで四里(約15キロ)、しかも沿道は危険な崖が続く雪崩地帯。人々は声を掛け合いながら、中谷を導きました。命がけでたどり着いたにもかかわらず、疲れた顔ひとつ見せず診察し、無事に男の子が誕生しました。
五箇山で病院を開いて6年目の大正11年、中谷は図らずも上平村長に推されました。医療に専念したいと考えていた中谷は、村長就任を拒み続けましたが、周囲の人からの再三にわたる要請でやむなく受け入れました。
ちょうどこの頃、上平村では南部と北部による主導権争いがありました。就任後間もなく行われた村議会では、早速両者が対立してしまいます。中谷は双方の言い分を黙って聞き、4時間近く演説して、その場をうまく収めました。また大正12年、細島耕地整理組合を組織して耕地開発を進めたほか、庄川の電力開発などに尽力、ダム建設によって起こった水没地をめぐる紛争などに、正面から立ち向かいました。
さて中谷の村長時代を語る時、特筆されることは「細島橋落下事故」です。彼が村長に就任した昭和11年11月10日の夜8時頃、演習中の金沢第九師団の兵隊が、庄川に架かる細島の吊り橋を渡ったときに、その悲劇は起こりました。勢いよく馬が橋にさしかかった瞬間、その重さと激しい揺れに耐えきれなくなった吊り橋の支柱が倒れ、渡っていた兵隊や馬が転落したのです。当日は激しい雨のため、足元が滑りやすい状態であったことも、大きな事故につながる要因となりました。現場に掛けつけた中谷は、その惨事に驚きます。しかし彼は、落ち着いて人命救助にあたりました。この事故で数名の死者が出たほか、重傷者も多くあり、現場は大変混乱したと伝えられています。
昭和20年5月、中谷は「風邪をひいた」と言い、細島の自宅に戻って寝込むようになりました。周囲の人たちは大変心配しましたが、中谷本人は「ちょっと風邪をひいたくらいだから大丈夫だ」と言い、全く耳を傾けませんでした。そして1週間ほど寝込んだ末の5月25日、肺炎のために静かに息を引き取ります。享年60才でした。
中谷の生家裏には、彼の顕彰碑があります。戦時中にも関わらず、細島の人たちをはじめ、上平村の人々の熱意に押され、彼の顕彰碑が建てられることとなったのです。中谷と終生親交を深めた松村は、「五箇山広シト雖、直接間接恩顧ニ触レサル人ナク」と彼の生涯を称えています。
ところで中谷が亡くなった後、優秀な元軍医らが、次々と病院を引き継ぎました。そして、細島と西赤尾に診療所が開設されたことで、中谷医院はその歴史に幕を下ろします。現在では上平(旧西赤尾)診療所を残すのみとなっています。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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