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【自称・べらんめえだった真の外交官】 山田久就

2025.11.01

田園が広がる南砺市広安に、「玉成会館」が建っています。地域の公民館として利用されているこの施設の正面横に、一体の胸像があります。旧福野町の名誉町民(昭和52年12月授与)である山田久就で、胸像にある題字は福田赳夫元首相によるものです。山田は日本外交の第一線に立ち、激動の国際社会を舞台に活躍した外交官で、後に国務大臣・環境庁長官となり、国政にも大きな足跡を残しました。
 

理想の外交官は父・久太郎

山田久就は、明治40年(1907)1月13日に陸軍の軍人だった、山田久太郎の長男として、京都で生まれました。父は陸軍きっての満蒙通(※1)との評価が高く、退役後は欧米視察に出かけて『欧米漫遊記』を著すなど、外交官のような仕事をしていました。山田の本籍地は父が生まれ育った、東礪波郡廣塚村田屋(現在の南砺市田屋)ですが、幼い時は父の転勤の関係で、東京の小学校や中国の旅順の中学校に通い、福野で過ごすことは年に数回でした。しかし山田は帰省する度に、「ああ故郷へ帰ってきた」という懐かしい思いを抱いていました。

旧制第四高等学校(現在の金沢大学)、東京帝國大学(現在の東京大学)を卒業後、外務省に入省した山田は、イギリス勤務を皮切りに、以後日中戦争、太平洋戦争、終戦、講和、動乱の中東、日中・日ソ問題など、まさに外交官として様々な舞台に立ち、縦横無尽の活躍をみせました。そして「外交は基本的に相互信頼に基づく人間関係である」と説き、また物事の判断基準として、「情報でなく事実に基づき、何が正義・公正で、しかも国益に合致するか」を常に念頭に置いていました。こうした信念に基づいて彼は、日中戦争当時には、血気にはやる軍を相手に「中国での駐兵は国際条約違反だ」と命がけで撤兵を主張しました。また終戦後の連合国軍総司令部(GHQ)と公職追放や財閥解体、日米安全保障条約(※2)などの交渉を粘り強く行いました。そして、交渉相手だったケーディス民生局次長やマッカーサー米国大使などから、「ミスター・ヤマダは、国益を重んじるタフな交渉相手だったが、偏狭な愛国者ではなく、フェアーな人だった」と高く評価されました。
 

学生相手に「日米安保条約」をめぐって議論

昭和32年、岸信介を首班とする第一次岸内閣が成立しました。岸は、本当の意味で日本が自立した国となるためには、アメリカに有利な日米安全保障条約(※2)を改定することが急務だと考えていました。翌年には岸の盟友・藤山愛一郎が外務大臣に就任、その後山田は外務事務次官となり、懸案だった安保改定に全力を尽くします。表舞台では岸や藤山が、裏舞台では山田が中心となって、アメリカとの外交交渉に臨みました。

そんなある時、早稲田大学に通っていた山田の息子が、こう言います。「友だちが、お父さんがやろうとしていることは、岸首相やアメリカの先棒を担いでいることだと怒っている」と。すると山田は、「オレは命がけで日本の国益を守っている。学生たちを家へ連れて来い。逃げも隠れもせず、説得してやる!」と答えます。そして、仕事のため遅く帰宅したある日の深夜、息子の友人らが大挙して山田邸を訪れました。山田は、「キミたちは、根拠がないのに反対している。もし条約を改定しなければ日本はどうなるのだ」と言い、学生と徹底的に議論し、質問にもひとつひとつ丁寧に答えました。血気盛んだった学生たちは、条約改定交渉の実情と、それに賭ける山田の思いを肌身で理解し、頭を下げて家路につきました。
 

環境庁長官に推挙される

日本国内を興奮の渦に巻き込んだ、安保条約改定をめぐる騒動は、学生の中から死者を出すという悲惨なものでした。そして条約改定を実現した岸内閣は、昭和35年7月15日に総辞職し、その役目を終えます。この後山田は、駐ソ連大使や東京オリンピック選手村名誉村長、外務省顧問を務め、35年の外交官生活に幕をおろします。

その後、周囲の勧めもあって昭和42年1月、山田は東京8区から衆議院議員総選挙に立候補、初当選を飾ります。かつてこの選挙区からは、山田夫妻の仲人をつとめた、鳩山一郎元首相が出ていましたが、山田はその後継者として立候補しました。以後、4回連続当選を果たし、昭和52年12月には福田赳夫改造内閣で、国務大臣・環境庁長官に就任します。山田と大変親交が深かった福田からは、「『外交』の知識を生かした、環境行政をやってほしい」と懇願され、山田は快く大臣を引き受けました。
 

寒ブリとともに・・・

ところで福野には、若い有志らによる「東雲会」が結成されていました。毎年5月に、墓参りで福野へ戻った山田は、彼らと日本の国政について熱く語り合いました。山田自身は大変尊敬している松村謙三代議士の後を継いで、故郷から立候補したいと考えたこともあったといいます。自分の故郷から国政へ立候補する夢は、ずっと持ち続けていたのです。

さて昭和62年12月15日の朝、山田はとし子夫人と遅い朝食を摂っていました。常日頃から、「夫人をとても尊敬している」と秘書たちに話すほどの愛妻家で、お茶の水女子大学出身の彼女は、まさに才色兼備な女性でした。その日の食膳には、山田が大好きだった「ブリ大根」が並んでいました。それを口にした山田は、「これ、おいしいね」と一言つぶやくと、箸をパタッと落とします。ただならぬ彼の様子に驚いたとし子は、彼に声を掛けますが、全く返事がありません。そして山田は気を失ったまま、すぐに救急車で病院へ運ばれ、そのまま静かに息を引き取りました。享年80、望郷の思いを抱いての、幸せな旅立ちでした。山田は「ブリはボクの命だ!」と公言して憚らず、選挙で当選した時や大臣に就任した時などには、福野から立派なブリが送られていました。

さて山田は生前多くの著書を遺しています。外交官生活をまとめた『べらんめえ(※3)外交官』は、昭和41年に発行され、ベストセラーとなりました。自称「べらんめえ」だった彼は、野人で気さくな一面、厳しさも持った人物でした。秘書として仕えた前文京区長・煙山力や台東区長の吉住弘、東京都議会議員の服部ゆくおなどが現在、政治の第一線で活躍しています。きっと今も山田は、自分の遺志を継いで、彼らが「公正な政治」を心掛けていることを願っていることでしょう。
 


※1…満洲(現在の中国東北地方の旧称)ならびにモンゴル高原東部の旧称。
※2…旧条約。基地を提供しても、その見返りとしての防衛が明記されていないなどの問題が指摘されていた。
※3…江戸弁で威勢のよいたんかの意。


この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部

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