2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
昭和7年、第3回冬季オリンピック大会(アメリカ合衆国、レークプラシッド)に、フィギュアスケートの選手として、日本から2名が代表として参加しました。1人は慶応義塾大学の学生だった帯谷竜一、もう1人が老松一吉です。老松は、第4回冬季オリンピック大会(ドイツ、ガルミッシュ・パルテンキルヒェン)にも出場し、草創期の日本スケート界をリードしました。また彼は、富山県で初のオリンピック選手でもありました。
老松一吉は、明治44年(1911)10月30日に東礪波郡出町中神(現在の砺波市中神)で、9人兄弟の三男として生まれました。老松は幼少の頃に、大阪の中村家の養子となり、大阪の中学校に通うことになりました。もともとスポーツ万能だった彼は、柔道部や剣道部、水泳部などに所属し、縦横無尽に活躍しました。
そんな老松がスケートに目覚めたのは、中学2年生の学期末試験最終日のことです。たまたま友人から、「気晴らしにアイスリンクへ行かないか」と誘われたことがきっかけでした。このリンクとは、自宅近くの市岡パラダイス(※1)内の室内アイススケートリンクです。老松は、スケートに夢中になってからというもの、道を歩く時にもスケートを滑るマネをし、よく道上の小石につまずいていたと振り返っています。
さてこの当時、日本におけるフィギュアスケートの競技レベルは、世界の舞台に立つにはほど遠いものでした。当然指導者もいない時代、そんな老松にとって唯一のバイブルだったのが、「パニンのスケート」という1冊の本でした。これは、日本スケート界の祖ともいえる河久保子朗が翻訳したもので、ソ連のフィギュアスケーターだったパニンが書いたものでした。これを見ながらスケートを学び、当時大変難しいと言われた3回転ジャンプを、見よう見まねで覚え、練習中に踏み切りを誤ったために、こめかみをリンクに叩きつけて失神、そのうえ失禁するなどスケートにのめり込みました。
昭和5年1月、第1回全日本フィギュアスケート選手権競技大会が栃木県で開催され、わずか1年というスケート経験にもかかわらず、老松は5位と健闘します。しかし東京で練習を重ねた人たちとのレベル差を肌身で感じ、いっそう練習に精を出しました。その結果、翌年の第2回大会で、見事に華を開かせ、優勝します。これが老松の、富山出身で初のオリンピックスケーターになった瞬間でした。
昭和7年、老松はオリンピックへ出場するため、帯谷竜一と共に渡米、世界を舞台に自分の思い描いたスケートを披露し、結果9位に輝きました。彼が関西工専(現在の大阪工業大学)に在学中の、19歳の時のことでした。
その後も多くのスケート大会への出場を重ねた老松は、第4回オリンピック大会にも出場しますが、惜しくも20位にとどまりました。この大会で彼は旗手をつとめますが、なんとジャンケンで決定したといいます。老松は、ドイツの国力を挙げてのオリンピックに、日本代表として堂々と行進しました。この時、日本五輪史上最年少(12歳)でスケート選手としてオリンピックに出場した稲田悦子も参加していました。当時ドイツは、ヒトラーが政治の実権を握っていましたが、そのヒトラーが開会式で入場してきた彼女を見て、「あの子は一体何をしに来たのか?」と側近に尋ねたという逸話も残っています。稲田はその後もスケート界で活躍し、老松の実の娘、上野(後に平松と改名)純子や福原美和、石田治子(女優・いしだあゆみの実姉)、伊藤みどり、大石恵などを一流スケーターに育て上げました。
昭和23年、不幸にも結核にかかった老松は、生まれ故郷の砺波へ戻り、静養に励みます。この後、娘である純子、まりこと会うことはありませんでした。純子は、昭和31年の第8回冬季オリンピック大会(アメリカ合衆国・スコーバレー)では旗手をつとめ、親子二代で旗手をつとめることになりました。老松は、わが娘の晴れ舞台であるオリンピック演技を、広島の自宅で観戦しました。
昭和37年、プロに転向した老松は、その3年後には大阪スケート連盟の推薦でスポーツセンターなどに講師として招かれ、女性や子どもたちにスケートを教えました。そして第一線を退いた後も、自宅がある広島から福岡県の福岡市スポーツセンターへ通い、後進の指導にあたりました。老松にとっては、スケートを始める子どもたちが、どんどん成長していく姿を見ることが何よりもの楽しみでした。
さて老松は、カメラ、絵、クラシック音楽鑑賞、短歌など多彩な趣味の持ち主でした。とくに短歌を詠むことが好きで、よく遠征先や自宅で思いついた歌を書き綴りました。
「さわさわと 米寿に届きし わが生きや 朝夕に踏む 野路の草霜」。この歌は米寿を迎えた際に、老松が詠んだ歌です。スケートに明け暮れた老松の生涯を、端的に言い表す歌といえるでしょう。また先述のパニンについても、「パニンの書に さぐり学びし 図型なり 諏訪の油水に ループ描きて」という歌を、戦時中に疎開していた諏訪湖畔で詠んでいます。
平成13年3月24日、老松はいつものように昼食を摂っていました。普段より食欲が増していたのか、たくさんの寿司を食しました。そして食べ終えて間もなくのこと、突然彼はぐったりします。医者が駆けつけた時には、すでに思う存分スケートを楽しめる、垣根のないリンクへと旅立っていました。享年89、顔には幸せな笑顔が浮かんでいました。老松が亡くなったこの日、何かの偶然か、広島県を中心とした地震(※2)が発生し、近隣県にも甚大な被害をもたらしました。それはまるで老松の死を悼み、悲しみに追いうちをかけるようでした。
ちなみに老松は生前、広島大学に献体(※3)を申し出ていました。2年後の平成15年3月、彼の遺骨は富山へ戻り、現在は射水市に住む弟・肇のそばで安らかに眠っています。
※1•••日本初の室内リンク。昭和5年に閉鎖。
※2•••芸予地震。同日15時28分頃発生、マグニチュード6.4程度。
※3•••死後自分の遺体を解剖学の実習のために提供すること。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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