2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
江戸時代、加賀百万石の城下町だった金沢は、幕政の旧体制が色濃く残り、明治以降は時代の波に乗り遅れていました。「このままでは金沢の経済力は衰退してしまう」、金沢市民の多くがそう思う中、彗星の如く登場したのが、西川外吉です。西川は北陸を代表とする財界人として、その名を轟かせました。
西川外吉は、明治34年(1901)4月29日、父・外太郎、母・みつえの次男として、東礪波郡城端町東新田(現在の南砺市城端)で生まれました。大工の祖父・吉蔵は手先が器用で、織物の羽二重(絹織物)が城端に導入されたとき、ケヤキ製の羽二重製織機を考案しました。その商品には「吉蔵」の烙印を押して販売していました。吉蔵の跡を継いだ外太郎は、城端で羽二重製織工場の経営に乗り出しました。
地元の小学校を卒業した外吉は、当時紡績科があった福井県立工業学校に進学します。厳格だった父から解放されたことで、学業がおろそかになる反面、その父を見て育ったせいか、当時の富山を代表する起業家・実業家の生き方に憧れます。
そんな外吉が卒業間際のころ、学校内でストライキが起こります。気骨精神が旺盛な彼は、その首謀者とされ、退学処分を受けます。結果、学校側の配慮により処分は取り消されたものの、こうした外吉に父は激怒し、勘当同然で京都の羽二重商へ奉公に出されました。
大正10年春、21歳になった西川は、城端から津幡に事業展開していた父に勘当を解かれ、父の元に戻ります。津幡は加賀・越中・能登の中間に位置し、当時は商業が盛んな場所でした。父は、地元の工場を買い取り、城東機業会社を設立します。事業は成功しますが、他から移り住んだ西川家は、周囲から妬みの対象とされます。西川自身、「津幡の空気が嫌になった・・・」と母に漏らしています。そんな周囲の反感に対して、彼は外出時に羽織袴に白足袋姿、フェルト草履にステッキといった大正ボーイ※のいでたちで、「機屋の息子が生意気に・・・」と冷やかな視線の中を堂々と闊歩しました。
昭和4年、27歳の時、西川は学生時代に憧れた実業家への第一歩として、西川商店を創業、独立します。業績は右肩あがりに上昇を続け、中国大陸にまで進出、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。しかし、時代は戦時統制経済に移行し、軍需用を除く絹、人絹織物は指定生産となり、西川商店も創業13年で、金沢絹人絹織物元売株式会社へ吸収・統合されることになります。彼の大陸での手腕を買われたのか、また企業家としての能力を見込まれたのか、自身もその会社の取締役として加わりました。また昭和16年4月から、津幡町議会議員もつとめました。
昭和21年、西川は金沢商工会議所の副会頭になり、翌年会頭に就任、再び政治・経済の表舞台に現れます。そして金沢財界のトップとして、通算21年間、会頭をつとめ上げました。
西川は、金沢の事業家たちから、「政治の表舞台に立たないか」と依頼され続けていました。それを固辞し続け、代わりに推挙されたのは、北陸を代表する百貨店「大和」の2代目社長の井村徳二でした。西川の勧めで、井村が衆議院議員総選挙に出馬するにあたり、井村は西川に頼みます。「初めての選挙で心細い。西川君・・・、君の勧めで(出馬を)決意したのだから、こりゃ絶対君が選挙の総参謀として指揮をとって欲しいが、この点はもちろん引き受けてもらえるでしょうね」と。これに対して西川は、「私は辞退したのだから、もちろん引き受けましょう」と答え、以後は井村の政治活動を支え続けました。西川が政治への道を固辞し続けたのは、「政治は政治家に任せるべきで、事業人にはそれなりのモラルがある。二足のワラジをはくべきではない。私は私なりに中小企業育成の為に、最善の力を尽くしていきたい」という、城端で生まれ育ち、郷土の事業家の生き方に憧れた、少年期からの信念を貫いたからでした。
西川は読書からビリヤード、茶道など数多くの趣味を持ちました。それは事業家として、幅広く交友関係を保つために、大いに役立ちました。しかし、妥協のない彼は、趣味といってもどれも一流の腕前、目利きでもありました。持っていた茶碗などは、石川県の重要文化財に指定されています。
昭和41年、これから起こることを「虫」が知らせてくれたかのように、各事業の要職を次々と長男・文平に譲り、第一線から退きます。その半年後、突然の嘔吐と腹痛に見舞われた西川は、主治医が診察した時は、手の施しようがないほど病状が悪化しており、すぐに東京女子医大付属病院へ入院しました。
発病までの半年間、西川は望郷の念と、城端から金沢へと変遷した自分の生い立ちを振り返っていたのかもしれません。その間、西川は自宅の金沢・寺町の高台から医王山の方向を眺め、「私の生まれたふるさと『城端』がみえるような気がする」と喜んでいました。この頃西川は、城端に残っていた生家とその敷地を町に寄付していました。その後は「東新田公民館」となり、現在も大切に使われています。
翌昭和42年6月16日の晩、西川の様態が急変、67歳の生涯を閉じます。東京からその日のうちに無言の帰宅をし、その途中、活躍の舞台だった商工会議所に早朝立ち寄り、全職員たちからの黙祷を受けました。そして北陸の「巨星・西川」との最期の別れとなる告別式には、2千5百人という参列者を数え、故人を偲びました。
※•••当時の男性の流行スタイル

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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