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【剣道の町・庄川の礎を築いた男】藤崎博明

2025.11.01

平成16年11月、旧庄川町は砺波市と合併し、新・砺波市が誕生しました。昭和27年6月に町制施行された庄川町の初代町長には、藤崎博明が就任しました。藤崎は通算11年、町政を担いました。チョビひげをたくわえた彼は、「ひげの藤崎」と慕われる名物町長として、その名を残しました。

 

自由奔放に生きる

藤崎博明は、明治39年(1906)10月29日に東礪波郡東山見村金屋(現在の砺波市庄川町金屋)で、4人兄弟の末弟として生まれました。父の理三郎は昭和初期に東山見村議を3期、東山見村助役をつとめ、村内でも世話好きな人物として尊敬されていました。そうした父を持つ藤崎は、県立福野農学校(現在の県立南砺総合高校福野高校)を卒業後、東洋大学専門学部論理学東洋文学科(現在の東洋大学文学部)に入学、単身上京して勉学に励みます。学生時代は剣道に打ち込み、五段という腕前でした。

昭和3年に卒業した彼は、社会人としての第一歩を歩みます。元々が奔放な性格だった藤崎は、いくつもの職を転々とします。昭和12年の日中戦争、昭和16年の太平洋戦争に従軍、終戦直前には商工省(現在の経済産業省)戦時局嘱託、日本スリッパ工業統制組合専務をつとめました。

藤崎が故郷・東山見村に戻ったのは、昭和20年の東京大空襲直後のことでした。空襲で自宅が焼かれたため、故郷の実家に身を寄せることになったのです。この頃には、故郷をしばらく離れていたため、藤崎の名を知る人は数少なくなっていました。
 

「馴れ合い政治ではいけない!」

故郷で細々と過ごす藤崎でしたが、40歳の時に、突如東山見村の村長選挙に立候補します。「これまでのような、旦那衆による馴れ合い政治ではいけない」という反発心が、彼を立候補に突き動かしました。無名に近い藤崎が手を挙げたことで、小さな村内がにわかに盛り上がります。対立候補の田上三郎は、地主出身だったことから、大半の村民が田上の当選を信じて疑いませんでした。ところが結果は予想を大きく裏切り、新人・藤崎が当選。手弁当で応援した農学校時代の同級生や青年団の人たちは、奇跡ともいえる当選を喜び合いました。

さて戦後、全国的に町村合併が進み、となみ野でもその動向が強まっていました。庄川地区では東山見・青島・種田・雄神の4村が合併することになり、昭和27年に新生「庄川町」が誕生します。砺波平野を生み育てた大河「庄川」を町名に冠し、庄川と生活を共にした地区が一心にまとまるという強い意思を内外に示したものでした。この合併に東奔西走したのが、東山見村長の藤崎博明、その人でした。合併の実績を高く評価された彼は、第1回の町長選で当選、以後町政の牽引役として辣腕を奮いました。
 

「質実剛健」のマチを目指す

初代庄川町長に就任した藤崎は、「農林行政の強力なる推進、道路網の拡張整備、中学を中心とした教育の充実、観光事業を強化して外来客を誘致し、以って商工業の発達に資したい」との抱負を掲げ、様々な施策を実行します。とくに熱意を傾けたのは、沿岸道路※の国道昇格運動でした。日本海と太平洋を結ぶこの道を、庄川経由にするか城端経由にするかの議論になった際、彼は庄川経由にすることを、国や県に強力に働き掛けました。藤崎は、「道路を整備することで文化が交流し、町同士の連携が深まる」と考えていました。一方、社会教育にも力を入れ、「質実剛健な町作り」を目指しました。教育の一環として、自分の愛する「剣道」を軸に、スポーツの振興をはかり、昭和33年の富山国体では、町内の会場に剣道種目を誘致するなど、その実現に尽くしました。

さらに勢いを得た藤崎は、町長在任中に県議会議員選挙に突如出馬し、初当選を果たします。これに伴い元青島村長で、当時庄川中学校PTA会長だった斎藤平治が藤崎の跡を継ぎ、2代目の町長となります。斎藤は温厚篤実な性格で、いつも古びた背広をまとうなど、藤崎とは対照的な人となりでした。ところが藤崎は県議1期目の在任中、再び町長になることを表明、平静だった町内は大きく動揺します。その背景には、次回の県議選で新人が立候補を表明、選挙での苦戦を強いられるとの見方があったからでした。こうした藤崎の動きに対して、現職の斎藤陣営は猛反発、温厚な性格で知られた斎藤本人も、支持の拡大に躍起となります。この時は現職の強みを生かした斎藤が、町長に再選されました。
 

静かに見守る・・・

昭和38年4月の町長選では、再び現職・斎藤と藤崎が立候補、4年間地道に支持を広げていった藤崎が、再び町長に就任しました。8年ぶりに返り咲いた藤崎は、斎藤が取り組んでいた町政の施策を次々と実現させていきました。これは町民に混乱を招くことがないようにと、藤崎が斎藤の功績に敬意を示したものでした。

昭和45年12月、町の定例議会で、藤崎は翌年の町長選に三たび立候補することを表明します。しかし妻の病気を理由に出馬を断念、政治の世界から身を引きます。翌年の選挙では元町議会議長の坂井幸雄、種田地区の朝倉務、当時助役の村井武一の3人が立候補し、激戦を勝ち抜いた村井が当選を果たします。村井は、藤崎や斎藤らの遺志を引き継いで町政に当たりました。この時、町民はもちろん、藤崎自身が待ち望んでいた町役場新庁舎の建設が着工されています。

さて藤崎は、常に情熱的で、頭の回転も早く、カリスマ性の強い人物でした。親分肌で面倒見もよい反面、自他共に厳しい人物でした。こうした性格だったからこそ、庄川の大同合併を実現させたとえるでしょう。 引退後、藤崎は好きな読書や剣道などを楽しむという、悠々自適な生活を送りました。そして平成4年3月24日、86年の生涯を静かに終えました。この年は、庄川町が町政施行40周年を迎え、藤崎にとってはかけがえのない、記念すべき年でもありました。
 


※•••現在の国道156号線。


この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部

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