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【稲を拝み、愛し続けた男】宮川庄太郎

2025.11.01

富山県、とくに「となみ野」は、日本有数の米どころとして知られ、沢山のお米が育つ豊穣な大地です。終戦直前、福光の一百姓だった宮川庄太郎は、少ない肥料で稲の自主性を生かして育てる農法を提案・実践し、大きな反響をもたらしました。宮川はリュック姿で各地を訪ね歩き、常に稲を多く収穫する方法を模索し続けました。「宮川農法」は、まさに米作の常識を覆す、画期的な農法でした。

 

土木技師から一百姓に

宮川庄太郎は、明治23年(1890)5月5日に西礪波郡廣瀬村山本(現在の南砺市山本)で、農家の長男として生まれました。地元の小学校を卒業後、県立高岡中学校(現在の県立高岡高校)に進学、勉学の傍ら、柔道に汗を流す日々を送りました。卒業後は上京して専門学校に入り、土木建築学を学びます。そして逓信省(現在の総務省)に入った彼は、北海道で3年間、発電水力調査を行い、その後は新開地の樺太(サハリン)へ渡って、以後30年間、電源開発の調査や設計にあたりました。

昭和18年の春、宮川の父親が突如亡くなります。このため彼は、生家で農業を継ぐために帰郷することになります。しかし、自分の思いが形となる今の仕事が楽しかった彼は、郷里の人に農業を引き受けてもらうことを願いました。ところが時局は戦時中、村の若者が戦地へ赴き、耕作する人手が確保できる状態ではありませんでした。農業を継ぐ決意を固めた宮川は、北海道で農業関係書を片っ端から買い集め、「どうすれば、限られた肥料で多く収穫できるか」と考えました。帰りの船の中で、それらにひと通り目を通した彼は、「オリジナルな農法で、できるだけ多くの米を収穫しよう!」と意気揚々と故郷に戻りました。
 

55歳で稲作に初挑戦

福光へ戻った宮川は、自分の納得できる農法を見つけようと、篤農家(※1)や学者に教えを乞うべく、各地を歩き回ります。幸い実弟が戦地から帰還していたため、弟に田畑を任せての旅でした。この旅を通じて、稲作には多くの方法があることを肌で感じ、素人百姓ながら、どれが正しいのか迷います。そこで、聞きまわった人たちの話で、共通する部分を拾い上げて実践しようと思い立ちます。当時は肥料が少ないご時世、結果、父が一時期実践していた農法をまねてみることにしました。

そして百姓1年目、早速会得した農法を実践すべく、田に足を踏み入れました。ところが宮川が取り組んだ農法は、当時の常識を破る突飛なものであり、周囲の人たちにとっては仰天ものでした。宮川夫妻を眺めていた人々は、「変人」だと吹聴し、非難や罵倒の声を浴びせます。ただでさえ緊迫した経済情勢下、「一粒でも多くの米を収穫しなくてはならない時に・・・」と、世間が騒ぎ立てるのも当然でした。しかし宮川は自分を信じ、四面楚歌の中を夫婦で力を合わせて頑張り抜きました。

結果、人々の予想を大きく覆すほどの多くの米が稔り、宮川は妻や兄弟と共に手を握り合い、感激の涙を流しました。
 

一転して「先生」に!

予想に反して多くの米を収穫した宮川に対し、それまでの酷評から一転、人々は宮川を高く評価するようになりました。新聞や雑誌にも大きく取り上げられたことから、宮川の田んぼを一目見ようと、全国各地から大勢視察に訪れ、「住み込みで手伝わせてほしい」という若者まで現れました。宮川は、「自分の農法で多くの人に喜んでもらえるなら」との思いから、各地で行われた講演会にも嫌な顔ひとつせず参加し、「宮川農法」の啓蒙につとめました。そしてわずかな時間の中でも、毎日のように田んぼへ足を運び、いつも稲に自分の思ったことを問いかけるなど、稲作りに情熱を注ぎ込みました。また勉強好きだった宮川の机には、常に数十冊の大学ノートが置かれ、雨の時には化学方程式で埋め尽くされたノートを見ながら、難問を解いていました。

そもそも宮川農法とは、きっちりと確立された農法ではありません。単に田んぼに苗を植えるだけでなく、『稲」本来が潜在的に持っている能力を引き出すことに主眼を置いたもので、「どうしたら米を多く収穫できるか」といった現実ばかりを追う人々には、なかなか理解し難いものでした。それぞれ違う田や稲にあわせた方法を採用しないと成功しない、と宮川は考えていました。

こうした努力に対し、作家の平林たい子、参議院議員の近藤鶴代、作家の吉川英治などからも、彼を高く評価する声が挙がりました。
 

原子力エネルギーに関心抱く

このように、後半生は農業と共に生きた宮川ですが、実は「原子力」の平和利用にも深い関心を寄せていました。宮川は、この原子力を農業に生かす時代が来ると予言し、周囲を驚かせていました。そもそも原子力エネルギーをめぐる一連の議論は、昭和30年代になってようやく具体化しますが、農業に取り組む前からこの技術がどう生かされるかを考えました。具体的には、アイソトープ(※2)により突然変異がおこり、自分たちが望む新しい品種を開発する技術のことで、まさに農業の「一大革命」でした。この頃京都で原子力博覧会が開かれ、宮川は持ち前の行動力でわざわざ富山から出かけていきました。この展覧会を見て感動した彼は、友人に日本の農業について熱く語ったといいます。

また宮川自身、徹底した朝・昼の2食主義の実践者でした。周囲には、「2食主義のおかげで、昔から医者に掛かったことがない」とよく話していました。また断食も日常茶飯事でした。趣味は囲碁で初段を保持し、また戦後は英語を独学するなど、勉強そのものが趣味の人といえました。ところが年齢に勝てず、昭和40年、近くの風呂屋で突然倒れた宮川は、そのまま息を引き取ります。享年75でした。

ちなみに宮川の生家の庭には、「庄太柿」と呼ばれる柿の木があります。とても甘い実が成りますが、これは今でも山本地区の語り草となっています。
 


※1•••農業に熱心で研究的な人。
※2•••化学的性質は同じでも、重さが少しだけ違う原子(元素)のこと。


この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部

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