REPORTピックアップレポート

【日本一のかきやまを生み出した男】川合 宣之

2025.11.01

「国旗は日の丸、あられは日の出屋」のキャッチフレーズでおなじみの「日の出屋製菓産業」。南砺市の福光を拠点とする同社は、福光を「かきやま」の名産地に育て上げました。その礎を築いた人物が、川合宣之です。川合は独自のアイデアを生かした商売を実践し、富山の一地方で作られていた「かきやま」を、全国ブランドまでに押し上げました。

 

郷里での再出発

川合宣之は、明治32年(1899)3月20日、西礪波郡福光町新町(現在の南砺市福光)で生まれました。学業優秀だった川合は、中学への進学を望みましたが、家の事情によりそれが叶わず、建設会社・西松組へ入社して建設作業員となります。当時、西松組は現在の国道304号線(福光・金沢往来)の道路を守る仕事を請け負っていました。川合は入社以来、全国の道路補修整備工事などの現場で汗を流す日々を送りました。25歳の時に母が他界、それを機に福光へ戻ることになります。

ちょうどこのころ義兄が、日本アラレという会社を創立し、細々とあられを製造していました。川合は親戚の岩木米蔵(後に丸米製菓を創業)から、「あられは今から需要が多くなる。儲かる仕事だからやってみないか?」と誘われます。良い米がとれ、小矢部川上流一帯で盛んに作られていた炭を生かした商売をしようと考えた2人は、金沢からあられ職人だった義兄を呼び寄せ、技術を学びます。いよいよ大正13年2月26日、26歳の時に従業員3人を従えて、あられの製造を始めました。
 

趣味の俳句を生かした経営

さてあられ作りを始めた川合は、顧客開拓を目指して全国各地を走り回ります。営業ノウハウの未熟な彼は、20歳から生涯楽しんだ「俳句」を用いた営業展開を考え、実行に移します。お得意先に送る出荷伝票に、「安くもなく、高くもないが、品がよく」と自作の俳句を印刷しました。この頃は「薄利多売」が当たり前の時代、川合の俳句はその時世に逆行するものでしたが、彼が得意先を回ると、「安くもない人がきた」といわれ、面白い人間だと相手から歓迎されました。また彼は経営方針である「安価な粗悪品より、高価な優良品がかえって経済的である」と印刷したこともありました。川合は高浜虚子の「新は深なり」という言葉を常に念頭に置き、新しい製品を作るより、旧来からのものを深く掘り下げていけば、必ず新製品が生まれると信じていました。

川合は常々、「日本一の『かきやま』作り」を力説していました。自身の俳号も「かきやま」をもじって「柿山」と名付け、まさに趣味と実用を兼ねたものでした。俳人・柿山(川合)は、いつもかばんに句帳をしのばせていました。また川合は、主宰した俳句の同人誌に「医王」と名付けるなど、故郷・福光をとても愛していました。となみ野の投稿者が中心だったこの同人誌は、毎月発行され、号を重ねるごとに投稿者を増やしていきました。
 

「類ありて比なし」

そもそも「あられ(かきやま)」は、もち米を用いて作られた米菓です。「せんべい」は主に関東地方で作られ、こちらはうるち米を用います。もともと富山では古くから保存食として、もちを薄く切って焼いた「欠餅」がありましたが、「正月の鏡餅を欠いて焼いた」ことに由来します。川合はこれを「柿山」と名付け、商標登録します。戦前、東京のビアホールで「日の出印」のかきやまは、ちょっとつまめるお菓子(おつまみ)として、大変人気を博しました。

戦争が激しくなった昭和18年、原料の確保が困難となったことから、休業を余儀なくされます。終戦後もしばらくは、原料米の配給が得られず苦しい日々が続きますが、昭和25年5月ようやく事業の再開にこぎつけることができました。この時、かきやまはもちろん、生菓子・饅頭・羊羹・最中なども製造・販売していました。川合はこの頃、福光に疎開していた板画(版画)家・棟方志功とも交流を深めていました。昭和20年に福光に疎開していた棟方は、当時貧しい生活を送っていましたが、川合は棟方の創作活動を支え続けました。福光を離れてからもその親交が続き、棟方とやりとりした手紙などが、今でも新町の柿山茶房にて公開されています。また、店の掛紙や包装紙に、棟方がデザインしたものを使い、客から大変喜ばれました。さらには陶芸家の富本憲吉、濱田庄司、河井寛次郎、俳人の高浜虚子、小松砂丘らとも親交を持ちました。
 

自慢のかきやま工場

事業再開から4年後の昭和29年3月、川合は株式会社日乃出屋製菓所を設立します。以来、かきやまの消費量は飛躍的な増加をみせるようになります。

川合はその時流に乗るべく昭和38年5月、国道8号線沿いの富山市金泉寺に新工場を建設、大量生産を目指し、販売拡充の基礎を築きます。清潔でオートメーション化された工場は、たちまち米菓業界の注目の的となり、多くの見学者が訪れました。その際に発売された「立山せんべい」のしおりに、「米どころ越中の良質米を原料とし、霊峰立山の麓、清冽※な常願寺川の伏流水を利用して、吟味製造したので立山せんべいと名付けました」と記すほどの「自慢」の工場でした。その後川合は、手狭になった福光・新町から田中地内に本社・工場を移したほか、東京・大阪・名古屋・金沢に営業所などを置いて販売網を拡充、「かきやま」ブランドは全国の家庭で愛されるようになりました。

昭和44年8月、川合は翌年大阪で開かれる「日本万国博覧会」に営業参加することを決めました。開催中、会場内に2店舗を構え、社員を派遣しました。自社製品が毎日2トントラックで運び込まれ、各店では販売の対応が追いつかないほどでした。結果は大成功、この時には社員に臨時ボーナスが支給されました。この成功を見届けた川合は、翌昭和45年11月、社名を現在の日の出屋製菓産業株式会社に変更し、同時に社長を退き会長となります。そして、生涯かきやまを愛し続けたまま、昭和48年1月7日に73年の生涯を閉じました。

その後、川合のかきやま作りの精神は代々受け継がれ、平成16年3月には創業80周年、会社設立50周年を迎え、現在に到っています。

 


※•••水が清らかに澄んで冷たい様。


この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部

この記事を読んだ人はこんな記事を見ています