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【ネクタイと共に生きた男】朝倉外治

2025.11.01

『エールック』、『マリクレール』、『ピエールカルダン』・・・。これらは大阪に本社を置いていた朝倉商事が取り扱っていたネクタイのブランド名です。日本を代表するネクタイ会社として、業界にその名を残した同社は、朝倉外治が一代で築き上げました。故郷を愛し続けた朝倉は、旧庄川町の名誉町民となりました。

 

「都会へ出て一旗あげんにゃ!」

朝倉外治は、明治34年(1901)12月25日に東礪波郡種田村古上野(現在の砺波市庄川町古上野)で10人兄弟の三男として生まれました。父・三郎は種田村の助役、東礪波郡会議員などを務める地元の名士で、しつけが厳しい「頑固者」でした。そんな父に対しては、ガキ大将で鳴らした朝倉も、学校へ出かける前には不平ひとつ洩らさず田植えをするなど、家の手伝いをよくしました。そして、種田村尋常小学校の頃には郡長から表彰状をもらうほどの優秀な成績を修め、周囲からは大いに期待されました。

父はそんな朝倉に対し、浅野総一郎や安田善次郎ら郷里の立身出世者の話をよく聞かせ、「田舎で百姓をやっていてもダメだ。都会へ出て一旗あげなあかん」と諭しました。しかし当の朝倉は、そうした立身出世伝には興味を示さず、父の言い付けに従うという程度の思いしか持っていませんでした。

大正8年、県立福野農学校(現在の県立南砺総合高校福野高校)を上位の成績で卒業した朝倉は、東京の神田和泉町にあるネクタイの山治商店に奉公します。ちなみに山治商店の社長だった辻次作は、東礪波郡般若村安川(現在の砺波市安川)の出身者で、朝倉の遠い親戚にあたる人物でした。奉公に入った朝倉は、昼は得意先を回り、夜はネクタイの仕立てに追われるという毎日を送り、針仕事しながらいつの間にか眠ってしまうことも度々でした。
 

小学生から「おじぎ」をされる

一本でも多くのネクタイを売ろうと考えていた朝倉は、当時を代表する百貨店・松坂屋へ足繁く通いました。縞の着物姿の丁稚小僧に対し、仕入れ担当者は全く相手にしませんでしたが、十数回足を運び続けた朝倉に、とうとう担当者が「ネクタイの見本を二百本ほど置いていきなさい」と申し出ます。諦めかけていた朝倉は、意気揚々として会社に戻りました。

大正9年12月、松坂屋へネクタイを卸すことに成功した朝倉は、会社から実績を高く評価され、大阪支店へ栄転することになりました。大阪へ向かう途中に郷里へ立ち寄った朝倉は、背広にネクタイ姿といういでたちでした。中越線出町駅(現在のJR城端線砺波駅)へ降り立つと、周りにいる小学生が自分に対しておじぎをしてくることに驚きます。この頃ネクタイをしている人といえば、村長や校長など地方の名士に限られていたためでした。その後昭和12年、大阪支店長に任命された朝倉は、コツコツと顧客を増やし、間もなく東京支店と肩を並べるほどに売り上げを伸ばしました。そして近畿から西日本、さらに台湾、満州へと販路を伸ばし、大阪で不動の地位を確立します。21歳の朝倉は、この頃から一社員から一経営者へと大きく飛躍をみせます。
 

ネクタイ業界の重鎮として

しかし時は昭和に入り戦争の道へ。「今日も(ネクタイが)あまり売れなかった。これからどうすればいいのだろうか」、朝倉は悩み続けます。当時の国民は、ネクタイを締めることは贅沢なことだと考えていました。こうした中、戦時下の衣料品の統制や販売会社の整備・統合で、大阪支店は大阪山治という会社組織となり、朝倉はその社長に就任します。国の政策によりネクタイの製造が禁止されますが、徴兵などからわずかに残った10人の社員で、くず皮やテープをより合わせたベルトなどを製造し、急場を凌ぎました。それに追い打ちをかけるように昭和20年3月、大阪大空襲で本社屋・倉庫も消滅、朝倉は失意のどん底に突き落とされます。

終戦後の昭和21年5月、大阪・本町に朝倉商事を設立、再出発をします。朝倉は、政府がストックしていた生地の払い下げを受けることに成功し、戦後の混乱期を乗り切ります。業界全体が低迷している中での、朝倉の情熱的な活動は、その後の業界発展の起爆剤となりました。それは、昭和26年の日本ネクタイ組合連合会の結成へとつながり、同業者からも厚い信頼を集めました。

ところで朝倉商事は、大衆の好みをいち早くキャッチするために、戦前からデザイン担当の企画室を設置していました。こうして時代の流れを敏感に捉えた朝倉商事は、年商50億円、ネクタイのシェアが全国生産の10%を超えるまでになります。昭和31年には「エールック」の商標をいち早く登録、テレビCMや新聞広告などで広くピーアールし、宣伝費だけで六千万円になったこともあったといいます。朝倉は、「儲かっても税金で取られてはつまらない。それより名前を広めた方がいい」と考え、ついに朝倉商事を日本一のネクタイ専門会社へと成長させました。
 

故郷をこよなく愛して・・・

多忙を極めていた朝倉でしたが、一方で故郷・庄川のことをずっと気に留めていました。とりわけ深い親交を結んでいた初代庄川町長・藤崎博明は、彼のよき相談役でした。昭和27年に庄川町が合併する際、藤崎から相談を持ちかけられ、「町の発展には、(合併は)よいことだろう」と話し、合併の実現に一役買いました。

その後も自身が卒業した種田小学校に、当時高額だったピアノや様々な教材を寄付しています。さらに60歳の還暦を迎えた際には、「町のために」と当時の金額で一千万円を寄付、これらは旧庄川町立図書館(現在の砺波市立庄川図書館)の本・資料の購入に充てられ、現在も「朝倉文庫」として多くの市民に利用されています。また関西在住の富山県出身者の集まりである「近畿富山県人会」の会長に就任、多くの富山県人の世話役をつとめました。

さて昭和54年、経営を長男・治雄に譲り、会長となります。それから間もなく、朝倉は多くの人々に惜しまれながら、同年4月3日、77年の生涯を閉じました。

 



この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部