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【生涯、教育者であり続けた男】川原忠平

2025.11.01

高岡市本郷にある高岡第一高校は、呉西初の私立高校として、昭和34年4月に開校し、平成16年で開学45周年を迎えました。創立者であり学校長だった川原忠平は、一期生415人を前に「私学に学ぶ誇りを持て」と説きました。「教育者は、生涯教育者であることが望ましい」と考えた川原は、生徒たちをこよなく愛する教育者として、一身を捧げました。

 

歌を口ずさみながら・・・

川原忠平は、明治32年(1899)1月27日に西礪波郡西太美村才川七(現在の南砺市才川七)で6人兄弟の次男として生まれました。福光尋常高等小学校を卒業した川原は、県立富山師範学校(現在の富山大学教育学部)を受験するものの、あえなく失敗。1年間、家の農作業を手伝いながら勉強を続け、翌年、再度挑戦しますが、またもや失敗してしまいます。

この頃父は、村の小学校の校長をつとめていましたが、自分の教え子たちの多くが日露戦争に徴兵され、全員戦死するという悲しい経験に遭遇していました。このことから、我が子だけは軍人にせず、師範学校に入れるしかないと心に決めていました。川原は再度浪人し、師範学校への入学を目指し、研鑽に励みます。合間には、村の山奥にあった西太美小学校の代用教員をつとめ、26人の教え子と共に楽しい日々を送りました。16歳の純朴な少年・川原は、歌を口ずさみながら、2里(約8キロ)の道を歩いて通いました。

3度目の試験でようやく合格した川原は、学生寮での生活が始まりました。しかし軍隊方式の厳しい共同生活が続いたため、同級生で後に洋画家となる、砺波市苗加出身の川辺外治と共に寮を抜け出して実家へ戻ったこともありました。
 

金魚博士といわれて

大正9年3月、富山師範を卒業した川原は、石動尋常高等小学校(現在の小矢部市立石動小学校)の訓導(教員)となり、教員生活をスタートします。この時は3年生の担任をつとめ、音楽を教えていました。しかしさらに勉強を続けたいと考えた川原は、一年足らずで教員を辞め、国立で唯一の教員養成所を持つ東京帝國大学農学部(現在の東京農工大学農学部)を目指し、入学者40人という「狭き門」に見事合格します。卒業後は、秋田県師範学校(現在の秋田大学の前身)へ赴任し、園芸教科の指導にあたりました。

昭和2年10月、奈良県立生駒農学校(現在の奈良県立郡山高校)に赴任した川原は、金魚の研究を手掛けることになりました。生駒農学校は、江戸時代から続く金魚の名産地・大和郡山市に位置し、藩主・柳沢氏が藩士の副業として奨励した歴史を有します。金魚の歴史、交配、産卵、孵化、給餌選別、育成などの研究と同時に柳沢金魚試験所主任を兼務した川原は、外国人への説明役をこなすこともありました。

36歳になった昭和9年9月、川原は楽しい教員生活を満喫していた奈良から、故郷・富山に呼び戻され、県立小杉農学校(現在の県立小杉高校)教頭となりました。以降、戦時中の苦しい時期を小杉で過ごし、農場実習、開墾、耕地整理、炭焼き、植林など、あらゆる実習に取り組みました。戦後には県立婦負農学校(現在の県立富山西高校)、小杉高校の学校長を歴任しました。
 

あの子たちを救わねば!

昭和24年3月、川原は県立福野高校の学校長に就任、延べ10年間つとめ上げました。しかし激務で無理を重ねていた川原は、体調を崩したため学校長を退職し、病気療養のため入院します。病床の川原の頭には、校長室から眺めていた、多くの中学浪人生たちの顔が浮かんでいました。「呉西に私立高校がないのは、教育の機会平等という点からもおかしい。希望しながら高校の門をくぐれなかった多くの子どもたちを救わねば!」、川原は自分の中に沸きあがってくる使命感を、どうしても抑えることができませんでした。

そんな折、高岡市立下関小学校の旧校舎が、市から払い下げられるという噂を耳にします。川原はこの旧校舎を使って、私立高校を発足させることを考えます。しかし手元にあるのはわずかな退職金のみ、川原は資金調達に頭を悩ませます。建設場所を探し回った川原は、まず高岡市中川に建設用地を求めました。しかし住民との折り合いが付かず、最終的には高岡市本郷に落ち着きました。元々農地だったことから、転用許可を得るのに時間を要し、正式な許可がないまま整地工事を始めるという有様でした。

一方、900人近くの願書を受け付けた入学試験も、私学審議会の答申が遅れたため、県立高校の受験前に試験ができず、創立事務所には願書と受験料の返還を求める長い行列ができました。ようやく設立認可が出たと思えば、今度は校舎自体が未完成だったことから、急遽、市立高岡西部中学校を借りて入学試験を行うことになりました。さらに合格発表の当日、突風で校舎が倒壊、まさに前途多難なスタートでした。
 

住所は「福光町才川七」

多くの困難に直面しながらも、高岡第一高校の入学式は、昭和34年4月15日に市立志貴野中学校を間借りして挙行されました。倒壊により新校舎の完成が遅れ、結局4月末に完成、翌5月1日にようやく引越して、新校舎を使うことができました。

昭和46年の秋頃から、体調不良を訴えていた川原は、入院して静養するよう進言されます。ある日の診察の際、脳外科の先生から「現住所は?」と問われた川原は「福光町才川七」と真顔で答えたといいます。故郷を離れて何十年、幼少の頃に育った福光への望郷の念から、思わず口について出たのでした。

体調を持ち直した川原でしたが、昭和50年12月8日の晩に再び体調を崩し、翌年1月3日、ついに77年の生涯を閉じました。葬儀には多数の弔問客が訪れ、真の教育者であり続けた川原に、最期の別れを告げました。

ところで川原は、私学構想を抱いた頃から、幼稚園から大学までの一貫教育を夢見ていました。現在その志を受け継ぎ、高岡第一学園は高岡第一高校のほかに、幼稚園教諭・保育士養成所、高岡市内に5ヶ所の幼稚園と高岡法科大学を擁し、多くの卒業生が社会の第一線で活躍しています。

最後に川原の意外な一面を示すエピソードをご紹介します。教師としては厳格だった川原ですが、家庭ではユーモアあふれる人物でした。台所に立ってカモ料理、おはぎ作り、甘酒作りなどをしたほか、子どもたちの遠足や運動会の弁当を作りました。子どもを愛する家庭的な一面もあった人物だったといえるでしょう。

 



この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部