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【商都・高岡を救った男】水上 良作

2025.11.01

富山県西部の中心都市・高岡を拠点とする高岡信用金庫は、高岡の商工業の発展に大きな役割を担ってきました。高岡信用金庫の理事長をつとめた水上良作は、全国に四百ある信用金庫の中で、同庫をトップクラスへと成長させました。誰よりも高岡の発展を願った水上は、中小企業の救世主として多くの人々に頼られました。

 

4歳で伯父の家の戸主に

水上良作は、明治12年(1879)3月29日に東礪波郡中野村(現在の砺波市中野)で藤井彦三郎の次男として生まれました。藤井家は、銘酒『立山』の醸造元だった藤井四右衛門の本家にあたります。

3歳の時、伯父の水上理平の養子となった良作は、翌年水上家の戸主となりました。水上家は元々平家の末裔といわれ、江戸初期(寛永年間)に平村から中野に移り、加賀藩の山廻役や十村役(※1)をつとめたほか、庄川・小矢部川の治水管理を担っていました。水上家は、中野神社の傍らに約一千坪の宅地を有し、周囲には外濠をめぐらせるほどの隆盛を誇りました。しかし明治10年に起こった西南戦争の反動不況で家運が傾き、幼い水上は十数人の家族と共に、苦しい生活を余儀なくされます。

そんな水上は出町高等小学校を卒業後、県立福野農学校(現在の県立南砺総合高校福野高校)に進学します。いつしか教員を夢見ていた水上は、農学校を中退して猛勉強し、念願の富山師範学校(現在の富山大学教育学部)の一回生として入学を果たします。そして卒業後は戸出、出町両小学校で、3年間教鞭をとりました。

さて徴兵適齢の21歳となった水上は、小学校教員を辞め、金沢師団騎兵隊第九連隊に入営します。上官の覚えもよく上等兵に昇進、充実した3年間の兵役を果たします。
 

日露戦争に従軍、そして実業界へ

明治35年11月に任期を終えて帰郷した水上は、出町にある東礪波郡役所の兵事課長になりました。そんな折、水上に召集礼状が届いたのは、明治38年1月のことでした。召集された水上は、第3軍の参謀部に勤務し、乃木希典将軍の下で働きました。この年9月に停戦命令が発せられ、曹長(※2)・水上は第3軍の97の部隊に、参謀に代わって停戦命令を伝達します。後年水上は、そのような大役にとても感激したと振り返っています。翌年2月、凱旋気分覚めやらぬ中、宇品(広島)に戻ってきた水上は、養母危篤の報せを受け、急遽養母の実家がある石川・粟ヶ崎(現在の河北郡内灘町粟ヶ崎)へ帰ります。しかし養母は、介抱の甲斐なく息を引き取ります。水上は従軍前に働いていた東礪波郡役場へ復職し、再度富山での生活が始まりました。

その頃国内は、日露戦争後の軍備拡張に支配されていました。それに伴い、高岡にも連隊区司令部が増設され、水上は戦争での活躍を認められて同司令部付に転職します。3年間、司令部に勤務した水上は、高岡市の懇請により、その後も4年間、市兵事課長を勤めました。その後同じ第3軍で働いていた木津太郎平との再会が、水上の運命を大きく変えることになります。水上は、北陸信託会社に勤めていた木津に推薦され、同社の支配人代理となり、実業界の道を歩み始めます。
 

高岡の救世主として

大正3年、第一次世界大戦が勃発し、高岡の銅鉄鋳物、打綿、織物、染物などの産業は、戦争特需で隆盛を極めました。しかし4年後、終戦による反動で国内は不況に陥り、高岡の中小企業は存亡の危機に直面します。この惨状を救うために、市の政財界の代表者たちは、中小企業に融資する金融機関として、信用組合創立を企図します。

こうして大正12年、北陸信託会社の支配人だった金田二作が中心となって、高岡信用組合が設立されました。水上は同組合の常務理事となり、金田を実務面で支えます。2人は粗衣粗食で仕事に打ち込み、その後長く続いた不況にめげず、献身的な努力を続けました。太平洋戦争中には、多くの男性社員が徴兵されますが、病がちな金田や女性社員と共に営業を続け、金田が亡くなってからは水上が先頭に立ち、終戦を迎えるに到りました。

ようやく男性社員が職場に戻ってきたと喜んだのも束の間、さらなる悩みが水上を襲います。戦後は預金が封鎖され、貸出制限を受けた組合は収益が上がらない状態となり、存続意義を問う声が挙がったのです。組合の総代会で、水上は机を叩いて、「確かに建物と私たちの命しかないが、皆様方が信用事業の将来と私を信用して下されれば、必ずやれます!」と強い決意を見せました。

昭和26年6月、信用金庫法が施行され、高岡信用組合は高岡信用金庫と改称されました。その後業績は毎年上昇し、創業30周年記念式典を行った昭和28年には、全国の信用金庫のトップクラスにまで成長していました。
 

自慢の長男・武

さて水上には自慢の息子・武がいました。武は水上の長男として生まれ、東京帝國大学理学部地震学科(現在の東京大学農学部)を卒業後、東大地震研究所に入り、後に教授となりました。武は浅間山や霧島山の火山観測所長として研究を続け、噴火予知研究に先駆的業績を残しました。多忙な武でしたが、高岡帰省の度に高岡信用金庫に立ち寄り、社員に「親父を早く引退させてほしい。高齢の父がずっと理事長を続けると、みなさんにご迷惑を掛けるので・・・」と父を思う気持ちと、同庫を愛する気持ちを伝えていました。

さて水上は、常々「庭造りと晩酌、早起きが健康長寿の秘訣だ」と話していました。仕事に対しては厳格だった水上は、社員から非常に恐れられましたが、一方で彼らを愛する気持ちは誰にも負けませんでした。また庭造りが趣味だった彼は、大好きな高岡古城公園の保護のためにと、同庫から10周年毎に一千万円の寄付を続けました。ほかに守山城跡二上山の整備に対する寄付、高岡市民会館の緞帳の寄付するなど、枚挙に暇がありません。

昭和38年5月、理事長を退いた水上は、その後昭和48年まで理事会長をつとめました。晩年は実娘の嫁先の病院で闘病生活を送り、白寿を迎える矢先の昭和51年9月26日、98年の生涯を閉じました。
 


※1•••江戸時代、加賀藩に置かれた10ヶ村ないし数10ヶ村を単位に設置された地方支配の組織長。
※2•••旧日本陸軍の下士官の最上位。


この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部

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