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【教化の道を極めた男】石原 堅正

2025.11.01

金沢市の尾山台高等学校は、石川県を代表する私学として創立され、平成14年に創立80周年を迎えました。この高校の前身である「金沢高等予備学校」を創立した人物が、石原堅正です。石原は、「心の学園」作りを目指し、石川県の教育界の重鎮として活躍、生徒をこよなく愛する教育者として、「教化」の道に徹しました。
 

父の愛情に励まされ・・・

石原堅正は、明治17年(1884)11月20日に東礪波郡細野村(現在の南砺市細野)で、西光寺住職・迦西霊浄の三男として生まれました。彼は、寺の眼下に広がる城端の町を眺めながら、お経や書道などの手習いを受けて育ちました。城端の尋常小学校を卒業後、県立高岡中学校(現在の県立高岡高校)に進学した彼は、ここでも熱心に勉強に励み、その姿が教師・石原即聞の目に止まります。子どもがいなかった即聞は、何事もひたむきに取り組む彼を高く評価し、養子として迎え入れます。

石原は家庭の事情から、他人より遅れて24歳で中学を卒業、京都仏教大学(現在の龍谷大学)に入学します。そして同学研究院に進み、大正8年に卒業、本派本願寺福井別院で教務所主任となります。

2年後のある日、石原のもとに善興寺(現在の高岡市中田)住職・飛鳥寛徹から、「本山から金沢の輪番(※1)を引き受けよと言われているが、経験がないので困っている。来てくれれば(金沢別院の)一切を任せたい」との便りが届きます。

当時、金沢別院は、輪番になっても3年と続かないという、何かとトラブル続きの寺として知られ、飛鳥はこの事態を収拾できるのは、若い石原しかいないと考えていました。この突然の便りに驚いた石原は、実父に相談、「本願寺派の寺院・門信徒が全国で一番少ない石川で、自分の腕を試すべきだ」と父は彼を励ましました。
 

電光石火の動きぶり

さて飛鳥の要請を受けて大正10年6月10日、会見に集まった新聞記者たちは、あまりに若い石原を見て驚きます。輪番になる人物といえば、年相応の年輩者が一般的でした。彼らは石原に対して、「目新しいことをしないなら、あなたの無能ぶりを攻撃する」という厳しい意見をぶつけます。吊るし上げのような会見の中で石原は、「牛歩ながら、できる限りの努力をする」と話すのがやっとでした。しかし石原は、早速その日の夕方には、以前より幼い時から仏の心を教えるべく、構想として抱いていた仏教幼稚園の設立について、別院の勘定・坂口秀雄に相談を持ちかけています。坂口は石原の理念に共鳴し、設立資金の寄付を申し出ました。

翌月10日、36歳の石原は本派金沢別院石川教区教務所管事(輪番)に就任しました。そして金沢市西町(現在の尾山町)にあった大谷廟所本堂を仮園舎として幼稚園設置認可を申請、大正11年4月に開園する運びとなりました。これは、金沢における幼児教育の先駆となり、開園時には84人もの入園児を受け入れました。その6ヶ月後には、金沢高等予備学校(※2)の設置を実現、夜間学校として多くの生徒が集まりました。

石原はまた、仏教青年会館を建設する構想を抱いていました。2階を青年中心の会館に、1階には当時廟本堂にあった仏教幼稚園を移転させるというものでした。しかし石原の身には、この後次々と災難が襲い掛かります。
 

懐に辞表を携えて・・・

まず禅宗の僧侶から、「当地の事情も知らずに、仏教青年会館を建てることはまかりならん。青年会館は3年前から、その近くに作ると決まっているので中止せよ」との意見が挙がります。これに対し石原は、各宗の教務所長を前に必死で自身の構想を説き、全員の賛成を得ることに腐心します。

一方、金沢別院の有力者60人が結託し、石原輪番を金沢別院から追い出そうとする動きをみせました。新しい考えをなかなか受け入れられない土地柄だった金沢の人々にとって、石原の動きは大変不愉快に感じるものだったからです。さらには、「幼稚園の中にある松の木を切り売って、自分の懐に入れている」という事件をでっちあげ、石原を罪に陥れようとする動きもありました。

石原は、「私利私欲で仏教青年会館を作りたいといっているわけではない。輪番の地位にこだわるものではなく、懐に辞表を忍ばせている。もし本当にみなさんが真実に生きた事業をやりたいなら、この石原の生首をとってほしい」と主張しました。とたんに会場は静まり、石原の言葉に全員の心が動きました。ちなみに石原は、その後もこの時の辞表を小さく折りたたみ、財布にずっとしまいこんでいました。何かことがあればいつでも辞める覚悟を持ち続けたことを伝えるエピソードです。
 

失意の学生を救いたい

大正13年7月、石原の努力が実って仏教青年会館が建設され、同年12月には金沢高等予備学校長に就任します。間もなく彼は、女子教育のために高等女学校を創立しようと思い立ち、仏教青年会館の創立に賛意を示した人たちに自己の構想を語ります。が、この時もまた猛反対を受けます。

石原は、何とか資金を確保すべく、翌朝早く石動に住む金沢別院の勘定の一人・岡本吉次郎を訪ねます。石原は岡本に女学校を設置する思いを熱心に話し、そのために資金のことで困っていることも正直に打ち明けました。すると岡本は、「自分のことでもないのに、それほどまで苦労するあなたの真心に打たれた。銀行の小切手帳を預けるので、必要な分だけお使いなさい」と答えます。石原は岡本の慈悲に対し、感激のあまり涙が止まりませんでした。

いよいよ大正14年、金沢高等予備学校の教室を借りて、金沢女子学院を設立し、昭和2年に同校を改組し、藤花高等女学校を設立しました。昭和22年、学制改革で藤花中学校・藤花高校が開校します。同校は昭和52年に共学となり、現在の尾山台高校となり、現在に到っています。なおその間、藤花保姆養成所や藤花タイピスト養成所なども設置されました。

さて終戦間際には、憲兵隊から「講堂に安置してある名号(南無阿弥陀仏)を外して、ご真影(※3)を掲げよ」と命令されましたが、名号を外すということは仏の道を捨てることだと信じて、聞き入れませんでした。

このように石原は、生徒にも信念の大切さを説き、自らも信念をもって教育にあたりました。また毎年、卒業生全員に「信念」という言葉を画仙紙にしたため、贈り続けました。

昭和53年の夏、石原は体調の不良を訴え、富山市の病院に入院し、半年近く闘病生活を送ります。そして翌昭和54年2月5日、ついに帰らぬ人となります。94年の生涯でした。同月25日には藤花学園葬が執り行われ、多くの教え子たちが石原との最期の別れを惜しみました。
 


※1•••寺の一切の事務を管理する役。
※2•••その後定時制尾山高校となり、昭和46年に廃校。
※3•••昭和天皇・皇后両陛下の写真。


この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部