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【よきフランスに惹かれた男】神澤榮三

2025.11.01

国語百科辞典の最高峰『広辞苑』。この第3版のフランス文学分野の執筆を担当したのが、神澤榮三です。神澤は、国内でも数少ない中世フランス文学研究の専門家として、特にヨーロッパの説話(※1)文学を深く研究し、ひいては世界の文学を文脈で捉え、数々の論文を発表、世界の文学界の発展に貢献しました。

 

「人がしない」専門を・・・

神澤榮三は昭和5年(1930)7月16日、東礪波郡油田村石丸(現在の砺波市石丸)で、農業を営む武島家の三男として生まれました。昭和12年4月、近くにある油田村尋常小学校に入学、この頃から成績が優秀だった榮三は、先生からはもちろん同級生からも一目置かれる存在でした。

そんな彼が6年生になった春のある日、講堂で行われた朝会で、同級生と共に全校生徒の前に呼ばれ、校庭の桜の枝を折ったことを咎められます。しかし、品行方正で鳴り響いていた彼に対して、「武島(榮三)がそんなことをするはずがない!」と先生は驚きを隠せませんでした。

戦争が激しさをみせてきた昭和18年4月、県立礪波中学校(現在の県立砺波高校)に進学、当時先進的だった井波在住の農民作家・岩倉政治の元へ同級生と共に通う日々を送り、文学に興味を抱きます。そのうちに漠然と「言語」に関心を持ち始め、在学途中に名古屋陸軍幼年学校に籍を置きますが、一方で、混乱する時代の中で自分自身に確信が持てないという毎日を過ごします。そんな虚脱感に支配されていた彼がある時、西脇順三郎の『古代文学序説』という一冊の本と出会います。ドイツ文学の研究が盛んなこの時、榮三は研究者が少なかったフランス文学の研究を思い立ち、以後フランス語の習得に精を出すこととなりました。
 

憧れの先輩の衣鉢(※2)を継ぐ

昭和23年4月、彼は明治大学に入学、翌年には同学文学部文学科に編入し、昭和29年3月に卒業します。この時、父親が砺波へ戻ってほしいと懇願しますが、フランス文学を極めたいと考えていた彼はそれを断り、東京大学大学院人文科学研究科修士課程に入学します。そして昭和34年3月に卒業し、4月から明治大学商学部の非常勤講師となり、フランス文学研究に邁進します。さて大学院卒業の頃、榮三のもとに縁談の話が舞い込み、出町の素封家である神澤家の長女・和子と結婚します。

昭和39年、明治大学文学部助教授だった時、フランス政府研修生として2ヶ月間、その後は私学振興財団奨学金によって昭和41年3月までパリ大学などで、中世フランス文学、中世オック語(南仏地方の言語)文学、古文書等について学びました。後年、この2年間が人生で一番有意義な時代だったと振り返っていた神澤は、「建造物など日常に残る『中世』に圧倒された」と、嬉しそうに話していました。

ところで、当時『広辞苑』の編集に携わったのは、国文学者の新村出・猛親子です。猛は当時、フランス文学の代表的な研究者として活躍し、名古屋大学文学部教授を務めていました。ある時神澤は、猛から、「(名大の)仏文を継いでほしい」と依頼されます。猛からの要請に神澤は応え、昭和46年に名古屋大学文学部助教授となり、以後教授に就任、幾多の有為な研究者たちを育て上げました。
 

「そうじゃないんですよ」

神澤はフランス中世文学、さらに西欧中世文学の紹介とわが国での研究・発展に尽くしました。名著として知られる『フランス文学講座』の中世担当分では、最新の学説を平易に解説し、全4巻からなる『フランス中世文学集』では、共訳で翻訳出版文化賞を受賞しました。

中でも昭和57年に発表した、『《口誦詩》理論と武勲詩(※3)研究』は神澤の代表的な研究論文です。これは、物語の発生と口承説話の関係を精密に論証し、学会で大きな反響を呼びました。そして、以後の説話研究の方向を定める契機となりました。また学会活動へも積極的に取り組んだ神澤は、日本フランス語フランス文学会中部支部長、国際アーサー王学会日本支部長なども務めました。その後平成6年3月に名古屋大学を定年退官、在職中の教育上・学術上の功績が顕著だったことから、名古屋大学名誉教授に推挙されています。

さて神澤は「そうじゃないんですよ」と言いながら、両手を腕の前でくるくると回す癖があり、学生からよく真似をされていました。講義は厳しいものでしたが、その内容は、強盗殺人罪で牢屋に入れられ、死刑になりかけたヴィヨンの「形見に俺のパンツをあげよう。被り物にしてくれ」などという『遺言書』をテキストに使うなど、学生にわかりやすくフランス文学の魅力を伝えようとしたものでした。また、普段の神澤は、クラシックコンサートに出かけたほか、美術館巡りが趣味でした。またジョギングなど、体調管理にも気を配る人物でもありました。
 

仏のような笑みを浮かべて

神澤は毎年盆と正月、本町の家と実家の武島家へ帰省していました。平成10年の盆も、いつものように砺波へ戻っていた彼は、8月17日、午前中から2階の書斎にこもり机に向かっていました。

昼食を済ませ1階で横になっていた神澤は、妻・和子に「なんとなく胸の具合が悪い」とポツリと洩らします。今まで体の不調など口にすることがなかった彼に、往診をした近所の医師は、「明日薬を取りに来てほしい」とだけ言い残します。それから間もなく、和子を呼び、「肩が凝っているようだ。揉んでくれないか?」と頼みます。今まで「肩凝り」など一度もない突然の申し出に、彼女は不審に感じながら肩を揉みます。心臓の裏にあたる背中のツボを押された神澤は、「とても気持ちがいい」と話し、「ありがとう」と笑顔で振り返ったそうです。

自分の生活リズムをきっちり守っていた神澤は、夜7時に夕食を摂ることを日課としていました。「今晩は、お粥にしますか?」、和子は神澤の耳元で尋ねます。しかし神澤は、いつものように姿勢よく眠り続け、和子の呼びかけにも微動だにしません。気付いた時には、すでに新たな世界へと旅立っていました。享年68、「ボクの人生は今からだ・・・」と思い続けての、志半ばの死でした。

神澤の志は、現在も名古屋大学文学部で彼の教え子によって脈々と引き継がれています。
 


※1•••昔話や伝説など。
※2•••広く学問で、師から弟子に授けられる奥義。
※3•••戦場でたてた手がら。


この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部