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【お笑いを掘り起こした男】中島 銀兵

2025.11.01

日本テレビで、40年近くにわたって放送されている「笑点」。この5代目プロデューサーを務め、その後の「漫才ブーム」の先鞭をつけたのが、中島銀兵です。中島は明石家さんま、ツービートなど、現在第一線で活躍するタレントを見出しました。そしてテレビを通じて、漫才ブームを生み出しました。

 

父と同じ名前「ギンペイ」

中島銀兵は、昭和13年(1938)6月6日、東礪波郡井波町山見町並(現在の南砺市山見)で、米倉庫業・中島喜三次の次男として生まれました。近所の人たちは「『六』が揃って縁起がいい、食べることにも不自由しないだろう」と彼の誕生を喜びました。ちなみに「銀兵」という名前は、父の幼名・銀平の「銀」と、戦時中だったことからと「兵」を合わせたものでした。

幼い頃、近くの西大谷川、家の向かいにある井波西別院の境内などで遊び、兄弟6人仲良く育ちました。小学校時代、クラスメートから慕われた彼は、生徒会長に推されるなど、リーダーとして卓越した面をみせました。またスポーツ万能だった彼は、小・中学生時代を通して野球に明け暮れる日々を送りました。

そんな優等生を思わせる中島でしたが、変わった一面も持っていました。中学生の写生大会でのこと、みんなは課題通りに、煙突や花などを描いていましたが、ずっと地面を見ていた彼は、黒い所に太陽の光が当たってジーッと熱が出ていることに気付きます。そこで彼は、画用紙に黒や赤の線を描いて、「太陽に照りつけられる校庭の土地」と題して提出します。これが先生に「ユニーク」だと評価され、金賞が贈られています。

県立福野高校に進学してからは、おしゃれな一面をのぞかせ、女子生徒からは人気がありました。また男子生徒からも「銀兵!」と気軽に声を掛けられる、誰からも愛される好青年でした。
 

人生を決めた浪人時代

昭和32年3月、県立福野高校を卒業した中島は、志望校を目指して東京で二年の浪人生活を送ることになります。この頃同郷の友人と久しぶりに顔を合わせた彼は、「浪人して辛いが、志望校目指してお互い頑張ろう!」と励まします。これが縁で、二人は生涯の友として親交を深めました。また先生からも、「長い人生の中の二年だ」と激励され、勉強と遊びに充実した日々を送ります。

昭和34年、成城大学文芸学部演劇科に入学した中島は、おぼろげながら「テレビ」に興味を抱きはじめます。たまたまNHKの芸能局長の娘と同級生として知り合い、その縁でスタジオを見学する機会を得ます。この時収録されていたのが、当時人気番組だった『お笑い三人組』でした。しかし彼は、人気タレントには目もくれず、スタジオでタレントを動かす男に興味を抱きます。「ブラウン管を賑わすタレントを動かすって、カッコイイな」、彼の胸は高鳴ります。また野球好きだった彼は、実況中継のディレクターにも憧れます。

この二つが実現できるテレビ局は、当時巨人戦の試合中継を放映していた日本テレビ放送網でした。中島は、郷里の大先輩・正力松太郎(射水市枇杷首出身)が創立したテレビ局として、日本テレビに親近感を抱き、憧れました。一方後年、「もし浪人生活がなければ、外務省に入って外交官を目指しただろう」と、人生の転機を振り返っています。
 

「お笑い」に人生をかける!

昭和38年、中島は念願の日本テレビに入社、同期にはアナウンサーの徳光和夫などがいました。とくに徳光とはゴルフを楽しんだり、結婚式に司会をしてもらうなど、深い友情を育みました。ちなみに中島は、昭和42年、29歳の時に恵美子と結婚しています。

入社以来、日本テレビの芸能局に配属となった中島は、念願のテレビ番組の制作に携わります。この時彼は、「テレビは夢を売る商売。視聴者に、常に正しい目線で企画を考える」ことをモットーとしました。そんな中、『笑点』の5代目プロデューサーに抜擢されます。この番組は中島の人生そのものでした。「マンネリ」と言われても、視聴者がいる限り、わが道を行くという姿勢を貫き、日本テレビを代表する看板番組へと育て上げていきます。

昭和55年4月、素人がお笑いスターを目指して挑戦するオーディション番組、「お笑いスター誕生」が放送開始されます。テレビ局がタレントを発掘しなければという、彼の一言から誕生した番組でした。ここからB&B、おぼん★こぼん、とんねるず、コロッケ、ウッチャンナンチャンなど、数多くのスターが巣立っていきました。 中島の名前が業界に轟いたのは、昭和55年12月の大晦日に放送された、『5時間爆笑ぶっ続け!!笑いは日本を救う!?』でした。当時人気絶頂の漫才コンビ百人が、一堂に会する大型バラエティー番組で、漫才ブームの絶頂期を象徴するものでした。大晦日の夜は『NHK紅白歌合戦』が高視聴率を誇っていましたが、『笑いは日本を救う!?』は平均視聴率11.5%を弾き出し、その後『爆笑ヒット大進撃』、『やじうま寄席』、『目方でドーン!!』などを担当します。
 

自称・上原の「加山雄三」?

中島はこれまで故郷で、二度の講演を行っています。昭和57年8月、井波町の町民大学に招かれた彼は、「テレビ文化論」と題する講演を行い、『笑点』の舞台裏などを面白く披露しました。また平成2年7月には、母校・福野高校で、「テレビと世相」と題する講演を行い、立川談志との出会いや、プロデューサーとしての魅力などを話しました。

平成8年2月23日の晩、闘病生活を続けていた中島は、57年の生涯を閉じます。同月28日の葬儀には、当時の日本テレビ社長をはじめ、『笑点』の大喜利メンバー、芸能界のトップスターらが次々と訪れ、早過ぎる死を惜しみました。そして三遊亭圓楽が、涙ながらに弔辞を読み上げると、会場からはすすり泣きの声が洩れました。

ところで休日の中島は、和服にゲタ姿で散歩するのが日課でした。自称「上原の『加山雄三』」中島は、洋服でもブランドものを身に付けるというダンディーぶりでした。お酒はあまり嗜みませんでしたが、冷たいビールはお腹に悪いと、夏でも「ぬるいビール」を愛飲しました。また常々、井波を懐かしみ、毎年お盆には必ず帰省、立山連峰の山並みが好きだった彼は、退職後は井波で暮らしたいと考えていました。

世間の流行に敏感だった彼の情報ソースは、山手線の終電でした。網棚に置かれている週刊誌をチェックしたり、サラリーマンの会話に耳を傾けました。ツービートの持ちネタ、「赤信号 みんなで渡れば怖くない」は、中島が丸の内の歩道でひらめいたものでした。

妻の恵美子は夫・銀兵をこう讃えています。「古き良き時代を大切にし、そして常に新しいことに挑戦する人。彼の人生に座布団10枚をあげたいです」と・・・。
 



この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部