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【素粒子物理学に名を残した男】崎田文二

2025.11.01

物理学の「ノーベル賞」といわれる「仁科賞」。平成14年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊も、昭和62年にこの仁科賞を受賞(共同研究)しています。昭和49年、「素粒子の超多重項理論および二重性理論の研究」を発表して、仁科賞を受賞したのが崎田文二です。崎田は、物質または場を構成する基本的な粒子、つまり素粒子の研究の第一人者として、物理学界にその名を残しました。

 

湯川秀樹に憧れる

崎田文二は、昭和5年(1930)、東礪波郡井波町畑方(現在の南砺市井波)で生まれました。地元の小学校を卒業後、県立高岡中学校(現在の県立高岡高校)を卒業し、金沢大学理学部へ進学します。当時から数学や物理などはもちろん、どの教科も好成績を修め、同級生からも一目置かれる、優等生でした。

大学在学中の昭和24年のある日、崎田にとって嬉しいニュースが飛び込んできます。日本物理学界の第一人者として知られた、コロンビア大学教授・湯川秀樹が日本人初のノーベル賞(物理学賞)を受賞したという報せです。物理学を志す人々にとっては、湯川はまさに憧れの存在でした。この湯川の快挙を耳にし、本格的に物理学を志すことを決意します。

昭和28年に金沢大学を卒業した崎田は、さらに物理学を極めるべく大学院に進み、一年ほど助手を務めます。翌年には、湯川と同じ素粒子論グループがあった名古屋大学大学院に移籍し、坂田昌一教授のもとで助手となります。坂田は、湯川と共に中間子論の発見・研究に尽くし、湯川のノーベル賞受賞に大きく貢献した人物として知られていました。坂田の研究室には彼を含め25人在籍しており、全国から30歳未満といった若い優秀な人材が集まっていました。
 

フルブライト留学生として渡米

昭和31年、名古屋大学大学院修士過程を修了後、崎田はフルブライト留学生として物理学研究の先進国・アメリカに渡ります。当時日本国内では、研究に取り組める環境が整った学校は少なく、有能な研究者の卵たちは次々とアメリカを目指しました。

崎田はアメリカ・ロチェスター大学大学院に入学、3年在籍し、その間に博士号を取得します。以後は昭和37年にウィスコンシン大学助教授となり、4年後には教授に就任、35歳の時のことでした。

さてウィスコンシン大学の助教授を勤めていた昭和39年、崎田は「素粒子のSU(6)対称性」理論を発表します。これは「素粒子」を、数学のSU(6)と呼ばれる群論を使って、分類・整理することができるというものです。これによって、何百種類とある素粒子が、系統だって整理することができるようになりました。つまりこの表を見れば、どの粒子がどのような性質を持っているのか、即座に判別できるようになったのです。この論理は具体的で簡潔だったことから、崎田の名前は世界に広まり、学界に大きな衝撃を与えました。彼は晩年、「いい仕事だったと思う。研究が飛躍的に発展したのは、あの理論がきっかけになっているのだから」と振り返っています。

その翌年の夏、崎田は9年ぶりに日本へ帰省します。一年前に行われた「東京オリンピック」の経済効果によって、日本は目を見張るような高度経済成長を遂げ、その変貌ぶりに驚くばかりでした。
 

弦理論の基礎を築き、仁科記念賞を受賞

アメリカへ戻った崎田は、ニューヨーク市立大学へ研究場所を移しました。特別教授となっていた崎田のもとには、世界各地の優れた研究者が集まりました。

このころから崎田自身の関心事も物性物理学へと移り、超対称性を初めて指摘した論文(弦理論、多体系の集団運動、ゲージ理論などを研究)を発表します。難しい論文ばかりではなく、岩波書店から発行された物理学の教科書を執筆することもありました。

こうした崎田の研究成果は、日本でも高く評価されるようになり、昭和49年に仁科記念賞にノミネートされることになりました。この賞は、物理学者の仁科芳雄博士の功績を記念し、原子物理学とその応用に関して、独創的で極めて優秀な研究成果を修めた人を表彰するものです。新進気鋭の優れた研究者に重点が置かれ、若い研究者の数少ない発表の場となっています。

崎田は翌年の夏に二度目の帰郷を果たし、以後は機会を見つけて戻るようになります。その後は、自然界で働く力の根源を解き明かす、「超ひも理論」の研究に邁進し、その基礎を築きます。

崎田は物理の研究には、無我夢中になって取り組みました。何か物理の問題を考え出し始めると、時間を忘れて熱く討論し、次の日には「あの問題は簡単だ!」とけろっと話してみせました。しかし影では、議論を終えて家に帰ってからも、解答を導き出すべく、寝る間を惜しんで、書斎で学術書と格闘していたのです。
 

「お酒」が入ると・・・

このように崎田は、物理学に対しては厳しい批判精神を持っていましたが、人柄はとても穏やかな人物でした。この頃、崎田が勤めていたニューヨーク市立大学は市の郊外にあり、立地条件はよくありませんでしたが、後年、崎田を頼って多くの研究者が訪れました。また学生も、崎田に憧れてアメリカ国内から多く集まり、研究室は活気を呈していました。彼は学生に対して難しすぎず、優しすぎない的確な問題を出題するなど、教育者としても一流でした。崎田のもとからは、多くの優秀な弟子たちが巣立ち、現在も学会の第一線で活躍しています。

さて晩年はニューヨークを生活の場としていた崎田ですが、お酒を飲んだ時には決まって故郷について熱く語っていました。ある日のこと、一緒に研究論文を発表したことがある吉川圭二が、学生時代に偶然となみ野を訪れたことがあると話すと、彼は目を輝かせて話をしたといいます。しかし自身は、研究する環境が整っているアメリカを離れるつもりはありませんでした。

平成14年になると、崎田は体の不調を訴え、入退院を繰り返します。そして平成14年8月31日、まさに研究に明け暮れ、世界の物理学界をリードし続けての、72年の生涯を閉じました。

後年、崎田は「物理学とは?」との問いに、こう答えています。

「物質の一番小さいものから、宇宙成立のことまで予言できるんです。未だに面白い。もっとも、重労働ができるわけではないし、自信をもってやれるのはこんなことしかないのかもしれませんが・・・」。
 



この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部