2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
昔から不治の病とされていた喉頭ガン。病魔に冒されると声帯を切除しなければならないため、患者たちは声を失い、沈黙の苦行に耐え続けていました。そんな人々に「再び声を取り戻そう!」と呼びかけ、発声練習を続けることを提唱・実践したのが、重原勇治が創立した銀鈴会です。重原は世界中の喉頭摘出者に、勇気と希望を与えました。
重原勇治は明治32年(1899)11月5日、東礪波郡福野町浦町(現在の南砺市福野)で、豆腐屋を営む重原久次郎の末子として生まれました。久次郎はもともと寺家(現在の南砺市寺家)出身で郡議会議員をつとめ、現在の二万石用水を自費で整備するなど、地元にとても献身的な人物でした。元来、人の良い性格だった久次郎は、その性格が災いし、多くの借金を抱え込みます。困った久次郎は、浦町の一角で豆腐屋を開業することとなります。
勇治は、学校を卒業後、20歳の時に親戚を頼って上京、大正13年に薬種問屋・木村商店へ奉公に入ります。この会社は4年後、大日本製剤に改組され、能力に秀でていた勇治は支配人に抜擢されます。さらに昭和6年、32歳の若さで日本実業株式会社を創立して独立、専務取締役に就任します。昭和18年には、同じく重原が創立していた日本薬品工業と日本実業が合併し、新・日本薬品工業が設立され、専務取締役(昭和26年には社長)となります。その後は、三井物産と武田薬品工業の協力のもと山川薬品工業が設立され、取締役として経営に参画、着実に実業家としての基盤を固めていきました。
昭和28年の夏のある日、53歳の重原は、ノドに違和感を覚えます。「風邪でもひいたのだろう」、とはじめは軽く考えていましたが、いつまでたっても治りません。不安を覚えた彼は、何軒もの病院を回りますが、はっきりした診断が出ません。ようやく東大病院にたどり着くと、医師はこう告げます。「喉頭ガンで即手術が必要だ。あなたの肉声は今後永久に失われると覚悟して下さい」。あまりに辛い宣告、しかし重原は「死ぬよりは良いだろう。(手術を)やってくれ!」ときっぱりと言います。そして6時間に及んだ手術は無事に成功、1ヶ月で退院することになりました。
しかしどんなに大きく叫んでも、声になりません。当時、山川薬品工業の社長として、まさに脂の乗った重原は、失意のどん底に突き落とされます。「電話にも出られないようなら、社長は務まらない」、そう判断し、第一線を退く決意を固めます。また今までは、妻子5人が賑やかに食卓を囲んでいたのが、手術後に家へ戻って食卓を囲むと、子どもたちは食事を終えてさっと引き揚げていきます。自分に気を遣っていることを肌身で感じ、一抹のさみしさと辛さを覚えずにはいられませんでした。
翌年、そんな重原のもとに手術の執刀医から一通の手紙が届きます。ドイツの大学教授が開発した「食道発声法」を普及させるため、発声教室を開いたという内容でした。重原は即入会することにしました。「喉頭摘出者は大いに喋って、しかも銀の鈴のような音声になってもらいたい・・・」、そんな願いから「銀鈴会」と名付けられました。
さて食道発声法とは、喉頭摘出者が声帯のかわりに、食道の入口を振動させて発声するというもので、胃の中に空気を取り込み、吐き出すときに出るゲップを利用します。ところがこの食道発声法は、当時その方法を会得した人が少なく、まさに手探り状態でした。元々重原自身も人工喉頭を使っていましたが、難しいとされていた、食道発声法の習得にチャレンジすることにしました。
「シューシュー・・・」、顔を真っ赤にして、ノドを振り絞るように発声を試みますが、最初は空気が漏れるだけで、全く声になりません。そのうちに首や肩が凝ってくるため、思わず人工喉頭に頼りそうになることもありました。夜更けには、自宅近くの公園へ妻・菊子と連れ立って発声練習を続ける日々。4ヶ月後にようやく「ア」の発音ができた重原は、日を追って「ウ・エ・オ」まで発音できるようになりました。しかし、口を横に開ける「イ」の発音は難しく、日常会話が話せるようになるまで、3年という月日が経っていました。
昭和29年に銀鈴会に入会した重原は、その明るい人柄と経営手腕を買われ、会の世話人に推されます。そして昭和39年9月には社団法人銀鈴会と改組された際も、満場一致で会長に推挙されます。
そんな中、当時の首相・池田勇人が喉頭ガンを患い、緊急入院したというニュースが飛び込んできました。多忙で満足に治療することが許されず、池田は看病むなしく翌年他界します。池田は生前から、「もし(自分が)退院したら、ぜひ銀鈴会でよろしくお願いしたい」と伝えてあっただけに、重原たちは残念でなりませんでした。
日常会話をこなすようになった重原は、昭和44年に山川薬品工業の社長に復帰、経営の傍らで喉頭摘出者の地位向上を目指します。そうした活動が評価された重原は、日本対ガン協会賞(昭和44年)、勲四等瑞宝章(昭和51年)を受賞しました。
昭和57年、世界24ヶ国が参加する、第3回喉頭摘出者世界大会が、東京で開催されました。この場で重原は、「食道発声法などで社会復帰した人は、今まで六千人を数えます。1ヶ月に一人当たり15万円を稼ぎ出したとして、年間108億円の国家的増収となります」と喉頭摘出者が社会復帰することによる経済的利益を、メッセージとして発信しました。二年後には、インド・中国・タイ・マレーシアなど10ヶ国からなる「喉頭摘出者団体アジア連盟」の結成に力を尽くします。
多くの人に重原の名前が知られるようになったのは、昭和60年「朝日社会福祉賞」を受賞してからでした。この賞は、永年にわたり社会福祉に貢献した人に対して授与されています。このような重原の情熱的な活動は、国連からも高い評価を受けました。昭和63年9月に当時のデクエヤル国連事務総長から、特別表彰を授与されました。
昭和63年に山川薬品の会長を退いた重原は、その経営の一切を長男・淑郎に任せます。平成元年、喉頭摘出者団体アジア連盟の名誉会長に就任、文字通りアジアを代表する世話人となりました。そして平成2年12月28日、聖歌隊が合唱する賛美歌とともに旅立ちました。92年の行路でした。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
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