REPORTピックアップレポート

【下町ルネサンスを実現した男】山﨑榮次郎

2025.11.01

両国国技館や花火大会で知られる東京都墨田区。墨田区長として、「山の手」ならぬ「川の手」という言葉を生み出し、隅田川を中心に据えたまちづくりを進めたのが、山﨑榮次郎です。山﨑は、郷里・福野や小矢部川・清水川へ深い愛着を持ち続け、旧福野町立授眼蔵図書館(現在の南砺市立中央図書館)の一角に「山﨑文庫」を創設、昭和62年2月に旧福野町の名誉町民に選定されました。

 

川に育まれて・・・

山﨑榮次郎は、明治44年(1911)4月17日、西礪波郡西野尻村上川崎(現在の南砺市上川崎)で、農業・山﨑勇蔵の末子として生まれました。幼い頃の山﨑は、はにかみ屋で甘えん坊な性格の少年でした。そんな彼の遊び場は、家のすぐ近くを流れる清水川でした。ホタルが舞い、魚が泳ぎ、虫が棲み、水草の揺れる川で、お尻をぬらしながらフナやコイを追いかける日々を過ごしました。またそのすぐそばを流れる小矢部川でも泳ぎ、まさに川とともに成長しました。こうした川に対する愛着が、彼の後世にとって大きな財産となります。

小学5年生の時、山﨑は担任の先生から「秋の学芸会の時、みんなの前で講談しなさい」と勧められます。恥かしがり屋の彼は困惑しますが、先生の「君の将来にきっと役立つことがある」との言葉に意を決し、それから毎日、裁縫室に1人篭って練習に励みます。当日、「明智光秀の本能寺の変」を講談した山﨑は、本人も満足のいく出来栄えとなり、彼の名は地区民に広く知れ渡りました。

他方、彼は算数から音楽・スポーツまで、何でもこなす少年でした。6年生が「算数の問題が解けない」と先生に言うと、「5年の山﨑に聞いて来い」と言われるなど、秀才として鳴らしていました。

 

「『六法全書』を見せてください」

小学校を卒業した昭和2年4月、山﨑は福野町役場で働き始めます。しかし、さらなる自分の可能性を見出そうと考えた彼は、22歳の時に郷里の友人を頼って上京します。

上京後、山﨑は職を転々としながら、目白商業学校(現在の目白大学)で法律を学びます。そして運よく、当時の東京市向島区役所の臨時職員として採用されます。

昭和19年7月、山﨑は召集され、満州の国境守備隊に所属、終戦を迎えます。それと同時に旧ソ連に身柄を拘束され、捕虜収容所で辛い抑留生活の日々を送ります。

昭和24年の暮れ、ソ連での抑留生活を終えた山﨑は、向島区と本所区が合併して誕生した墨田区役所に復職します。その初日の山﨑の第一声は、「六法全書を見せてください」というものでした。この一言に、区役所の職員は驚きます。彼は、様変わりした日本の新体制や、戦後の民主主義の有様を早く会得しようと考えたのです。以後、寸暇を惜しんで苦学・独学し、昭和30年からは財務、総務課長などを歴任、昭和38年には墨田区の助役に就任します。

もともと墨田区は、中小の町工場が軒を連ねる、古き良き下町でした。しかし首都・東京への急激な人口増加に伴い、昔からの良き細やかな人情が薄れていくことをひそかに嘆いていました。

昭和49年2月、山﨑は前任区長の退任を受け、区議会の圧倒的な支持を得て墨田区長に就任します。昭和50年より区長職は公選となりますが、広く厚い区民の衆望を背に立候補、初当選します。

 

「すべての人とは皆兄弟」

公選で墨田区長に就任した山﨑は、「まちへ出る」、「区民の目線でものを見る」という姿勢を打ち出し、どんな小さな集まりや催しもいとわず顔を出し、区民との触れ合いの場を大切にしました。

山﨑は、「政は正なり」という孔子の言葉をいつも胸に抱いて区政に取り組みました。私利私欲に走らず、政は地域住民の生命・財産を守り、全ての人の幸福を実現するために公平・公正に行われるべきだと考えたのです。そうした山﨑の姿勢は、多くの区民の心をつかみました。

山﨑はまず昭和53年に、17年間途絶えていた「隅田川花火大会」を復活させます。この復活は、東京の風物詩に新たな一ページを加えるものでした。翌年には震災・戦災に見舞われた歴史を踏まえ、全国に先駆けて「不燃建築物建築助成制度」をスタートさせ、「燃えないまちづくり」につとめるなど、墨田区のルネサンスの実現を目指します。さらに山﨑は、台東区蔵前に一時移転していた国技館を、再び相撲の発祥地・両国に建設することを提案します。そして東奔西走してきた彼の願いは実り、昭和60年1月に新国技館が完成し、39年ぶりの里帰りを果たしました。

その一年前のこと、山﨑は新国技館のこけら落しのイベントをどうするかを、指揮者の石丸寛と共に思案していました。石丸は、売れっ子を招くポピュラーコンサート、謡曲や木遣りなどの伝統芸能、交響曲第九番「合唱」演奏会、という三案を提示しますが、山﨑は「それでは、第九でいきましょう」と答えます。できるだけ多くの区民が一緒になって、歓迎の意思を表現しようと考えていたのです。

そして昭和60年1月17日、五千人による第九の歌声が、真新しい国技館に響きわたりました。バスパートの一人として参加した山﨑は、その片隅で目頭を熱くしながら、高らかに歌いあげました。

 

故郷への恩返し

昭和61年の暮れから風邪気味だった山﨑は、年末年始の慌しい仕事が原因で体調を崩し、翌年1月に入院してしまいます。そして闘病生活を続ける中、昭和62年2月3日に心不全のため75年の生涯を閉じます。当時の東京都知事・鈴木俊一は、「本当に惜しい人を亡くした」と、その早すぎる死を悼みました。2月20日には区葬が執り行われ、生前の姿を偲ぶ写真も展示される中、約四千五百人という多くの人たちが風流区長・山﨑との別れを惜しみました。

山﨑の死後、遺族によって遺品が整理されました。その中から、彼が生前果たせなかった思いを綴った多数のメモが見つかり、「福野へ本を贈ってほしい」というものも残されていました。山﨑は区長在任中の過去二度にわたり、福野町立授眼蔵図書館へ辞書・図鑑・文庫本など約二千五百冊を寄贈していました。これが最後の寄贈となり、少年時代に毎日勉学に励んだ図書館への感謝の意を込めたもので、故郷への思いが伝わってきます。

毎年2月、国技館で「国技館五千人の第九コンサート」が開催されます。山﨑の遺志は、今も墨田の地で脈々と受け継がれています。

 



この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部