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【タカラヅカに惹かれ続けた男】黒瀧月紀夫

2025.11.01

平成16年4月、兵庫県宝塚市にある宝塚大劇場で、女性の花園「宝塚歌劇団(以下タカラヅカ)」が創立90周年記念式典を開催しました。このタカラヅカに幼い頃から興味を抱き続け、ついにはその振付に携わり、活躍を続けたのが、黒瀧月紀夫です。黒瀧は女性の「美」と「楽」を求め続け、タカラヅカを代表する演劇の振付師として、その名を残しました。

 

踊りに慣れ親しんで・・・

黒瀧月紀夫(本名・石井浩三)は昭和13年(1938)5月16日、西礪波郡福光町観音町(現在の南砺市福光)で生まれました。父は東町で電気店を開業、先進的な人物として知られていました。

当時観音町は、この地域を代表する歓楽街でした。そうした生活環境の中で育った彼は、幼い頃から、芸者が踊る日本舞踊に興味を抱きます。祖母は芸者の踊りを真似する黒瀧を見て、女の子用の着物をプレゼントします。子ども心に祖母が理解してくれたことに感謝した彼は、その着物を身に付け、ますます踊りへの関心を深めます。また音感に秀でていた黒瀧は、初めて手にした楽器でも見よう見真似で、すぐに演奏するなど、卓越した才能を見せていました。また一度踊りを見るとすぐ覚えてしまい、芸者らに踊りについて指摘することも度々でした。

県立福野高校へ進学した黒瀧は、バレーボールに明け暮れる日々を送ります。その一方で彼は、今も当時も女性の憧れである、タカラヅカにも惹かれていました。当時使用していた学校の教科書にも、本名と並べて、後の芸名となる「黒瀧月紀夫」と書くなど、すでにこの頃にはダンサーになることを夢見ていました。
 

女性の美を求め続けて・・・

タカラヅカに関心を深めていた彼は、タカラヅカが発行していた月刊誌『歌劇』を愛読し、毎号郵送で取り寄せていました。ある時、たまたまこれを手にした父が、「男がこんな雑誌を読む必要はない!」と一喝し、火の中に投げ込んでしまいます。彼はショックを受けますが、それ以来「歌劇」を女友達の家に送ってもらい、親の目を盗んで読んでいました。

高校を卒業した黒瀧は、中越パルプ工業に入社し、社会人生活の第一歩をスタートします。しかしダンスを学べる環境を見出したいと考えた彼は、親戚を頼って神戸へ移り、日中は仕事、夜はひたすらダンスの稽古に励みました。

そんなある時、黒瀧は梅田コマ劇場で男性ダンサーを募集しているという情報を得ます。彼はすぐに auditions に応募し、難関の中で見事合格、ミュージカルチームの第一期生となります。その後はテレビや日劇(現在の有楽町マリオン)、ニューフジヤホテル(静岡県熱海市)などを転々とし、歌ったり、踊ったりと自分が夢見た人生を歩み始めます。布施明・浅茅陽子主演のミュージカル『42丁目のキングダム』や、松坂慶子主演のミュージカル『ビクター・ビクトリア』など、ファンの心に残る名作にも携わります。また日劇ミュージックホールのトップダンサー・岬マコや、「のど自慢荒らし」との異名をとったジャズシンガーの森サカエ、「芝居じかけの音楽会」で知られる加藤登紀子らとも親交を深めました。また黒瀧は、フィリピンにダンサー養成所を設立しています。以来、現地でダンスを勉強した女性たちが次々と日本を訪れ、舞台で華麗なダンスを披露しています。
 

憧れの舞台「タカラヅカ」

忙しい日々を送っていた黒瀧の前に、その後の人生を決める人物が現れます。後に宝塚歌劇団の理事長となる植田紳爾で、植田と黒瀧はその後も長く友情を育みました。

ある日のこと、植田は黒瀧が振付した作品を見る機会を得ます。この作品を見て感激した植田は、彼に「タカラヅカで振付をしてもらえないか」と打診します。念願のタカラヅカでの振付のチャンスを得た彼は、天にも舞うほどの喜び様でした。

最初の作品は、昭和54年1月から公演が始まった「春風の招待」でした。タカラヅカで岡正躬や朱里みさをに師事した黒瀧は、その後『夜明けの序曲』や『ベルサイユのばら』、『風と共に去りぬ』など、主に植田が演出を手掛けた作品の振付を担当します。『ベルサイユのばら』は、昭和から平成にかけて何度も公演されていますが、黒瀧は平成版(1989~1991)で振付を担当しました。他にタカラヅカでは、舞踏会ほかのダンス場面を、毎年一本から三本の振付を担当し、主にドラマ系作品のダンスの振付をしました。タカラヅカの数々のスターと交友関係を築き、とりわけ天海祐希や鳳蘭、汀夏子らとは、公私にわたって付き合いを持ちました。そんな忙しい身ながら、故郷へ度々足を運んだ黒瀧は、自分が育った商店街の変貌に驚きながらも、いつも懐かしさを感じていました。

ところで普段の黒瀧は料理好きで、海鮮類がたっぷりの贅沢な鍋を好んで作るなど、家庭的な一面もありました。踊りには厳しい彼が好かれたのは、こうした性格の持ち主だったからでしょう。
 

晩作『EL DORADO (エル ドラード)』

平成8年の暮れ、黒瀧は親友の福原圭一に、「還暦までは生きたいワ~」としみじみと語りました。愛煙家だった彼は、この時、体調不良を感じ、自らの余命が短いことを予感していました。

翌年5月9日、星組による『魅惑Ⅱ―ネオ・エゴイスト』の初日、黒瀧は宝塚歌劇団会長・小林公平と顔を会わせます。そして彼に「『ビギン・ザ・ビギン』の振付が出来て、こんなに嬉しいことはない」と、青年のような面差しで熱く語っていました。

平成10年6月27日、月組による『EL DORADO』が宝塚大劇場で初日を迎えました。当時、東京のガンセンターに入院していた黒瀧は、ベッドに横たわりながら振付を指導、しかしその作品を見ることは叶いませんでした。そして7月5日に59年の生涯を閉じます。

葬儀・告別式では植田が弔辞を読み上げました。そして、「8月からの『ザッツ・レビュー』の振付をしてほしかったのに、その約束を果たさず先に逝くなんて・・・」と、あまりに早い死を悼みました。

さて黒瀧の棺の中には、出演者による寄せ書きが書かれた『EL DORADO』のパンフレットが納められました。その中で、この作品が月組の新トップスターお披露目公演となった真琴つばさは、自身を支えてくれた黒瀧への感謝の気持ちを書き添えています。
 



この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部

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