2025.11.01
【世界の空を見つめ続けた男】若狭 得治
by おとなり編集部
「日本経済を支えているのは、大多数の中小企業である」と主張し、中小企業が団結して、お互い協力しあうことを、誰よりも先駆けて提案・実践した人物が、岸加八郎です。北陸はもとより、日本の繊維業界の重鎮として活躍した岸は、日本絹人絹織物工業組合連合会(日絹連)理事長として業界の発展に尽くしたほか、率先垂範で幾多の困難を克服した企業人としてその名を残しました。
岸加八郎は明治21年(1888)3月26日、東礪波郡城端町出丸(現在の南砺市城端)で、岸加市の長男として生まれました。祖父・与右衛門は城端で肥料問屋を営んでいましたが、次男の父は独立して絹織物製造を始めました。その後、明治30年代に城端絹糸合資会社を組織し、明治33年には同社を発展的に解消して、城端物産株式会社を設立します。一方、明治35年に城端高等小学校を首席で卒業した加八郎は、直ちに同社に入社して父を助けます。
この頃の城端は、薄手の絹織物をめぐって15社が競合し、互いにしのぎを削っていました。「このままでは共倒れになる」と考えた加八郎は、父に進言して金沢へ進出し、生糸や羽二重商を営む岸加市商店を開きます。当時の金沢では、輸出羽二重が大変隆盛していましたが、相場を張る商売で浮き沈みが激しいものでした。その中で岸の店は、明治44年に合名会社へ改組し、加八郎は弟たちと力を合わせて、日中は商談に、夜は帳簿整理に明け暮れ、商売を発展させました。
第一次世界大戦後の大正9年に起こった世界大恐慌は、金沢の繊維業界を直撃し、絹織物価格の大暴落をもたらします。原料の生糸価格も暴落したため、同業者の中にはすでに高値で契約してあった生糸の買契約を反故にする者も現れますが、岸は頑なに「信用第一主義」を貫きました。製糸家との買契約を誠実に守り、高い契約価格のままで買い上げたので、多くの仕入先の信頼を築き上げました。不況のときにこそ、信用関係を築いたのです。
またこの恐慌を通じて、羽二重一本で事業を進めることに不安を感じた岸は、それに替わり得る富士絹(※1)の生産を模索します。大量生産・大量販売が可能で、湿気の多い北陸の気候風土にも最適であり、時流に適応すると考えたのです。信頼できる仲間と協力し合った方が、大きなシェアを獲得できると判断した彼は、同業の一村商店に相談を持ちかけます。結果、両社間の提携が実現し、早速各地に見本を送ります。その結果、業界内から好評を博し、オーストラリアなど海外に輸出されるまでになりました。
こうした経験から、岸は中小の産元(※2)商社が団結して織物生産を行い、大企業と対抗できる業界横断組合の設立を企図します。そして大正12年にマルサン富士絹組合を設立、商品にはブランド名「MA」を付して品質管理を徹底しました。
昭和3年5月、岸は金沢市の委嘱を受け、新聞社主催の欧米一周視察団に参加します。欧米各地にある織物工場や市場の視察に出かけた彼は、現地のデパートを訪ね、最も売れている織物の見本を片っ端から買い集めます。その数は百種類にも及びました。帰国後、それらを丹念に分析した岸は、それらすべてに人絹(レーヨン)が使われていることを発見します。この頃すでに富士絹は飽和状態だったことから、岸は人絹への転換を決意します。業界で不安視されていたこともあり、彼にとっては大変な勇断でした。
またちょうど同じ時期、商工省(現在の経済産業省)では、産業合理化政策を進めていました。これにあわせて岸はマルサン織物組合を結成し、そのモデルケースを担いました。そして昭和8年には、商工省の指導で工業組合の全国組織化が図られ、日本人造絹織物工業組合連合会(人工連)が設立され、その実現に力を尽くした彼は、その結成式で議長役を務めました。しかし太平洋戦争が進むにつれ、輸出の停滞や配給統制化が法制化され、組合は解散を余儀なくされます。
終戦後の昭和20年12月、岸は請われて石川を代表する染色会社・倉庫精練の社長に就きます。石川県織物産業の復興のためにと、織物業界と不可分の関係にある同社の重要性を考え、多忙の中での社長就任でした。そして自身が経営する岸商事株式会社も、石川県トップの繊維産元商社に成長しました。
昭和35年6月5日の午後、子会社の志雄織物で会議をしていた岸は、突然の心臓マヒに襲われます。そして敢え無く岸は、72年の生涯を閉じます。その報せはたちまち業界内を駆け巡り、同じ城端出身の西川外吉は、「同郷の先輩として、業界最高の指導者として学ぶことが多かった。織物業界の歴史をつくり、内外の信用を強め、業界のためにわき目をふらずに一生を終えたことは偉とするに足る。功なり名をとげて満足であろう」と、先輩への畏敬の念を表しました。また岸は自身の死を悟っていたのか、亡くなる直前に自身を回顧した『織物とともに五十五年』を著しています。
さて岸は、いつも宴席で藤山一郎のヒット曲『丘を越えて』を披露していました。歌を口ずさむ時には、医王山の向こうにある金沢に憧れていた少年時代を、懐かしく思い出していたのでしょうか?
※1•••羽二重に似せて織った絹織物。
※2•••産地元売り。産地・金沢に拠点を置き、自らが材料を手配し製造・販売を手掛ける。

この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.02.28
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部
2025.11.01
by おとなり編集部