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【兄弟と共に商いを楽しんだ男】音頭作次

2025.11.01

地震などの自然災害が発生した地域では、仮設住宅を生活の拠点として、被災者の方々が自身の復活を目指して励む姿が見られます。こうした仮設住宅(プレハブハウス・ユニットハウス)などを製作・販売しているのが、金沢市を拠点に全国展開している音頭金属です。この会社を創立した音頭作次は、傷痍軍人の身ながらも、経営の第一線に立ち続け、日本の経済発展ならびに生活の向上に大きく貢献しました。

 

「勉強よりも仕事の方がいい!」

音頭作次は大正6年(1917) 2月10日、西礪波郡鷹栖村(現在の砺波市鷹栖)で父・安太郎と母・かのの四男として生まれました。祖父は藍染職人、父は精米所を経営していました。

その父がある時、知人と一緒に高岡の米相場に通い、一攫千金を狙おうと画策します。結果は見事に失敗、音頭家が所有する田畑や家までもが人手にわたり、一転して苦難の道を歩むことになります。どうにか往来沿い (旧国道359号線)に引っ越すことができ、一家は雑貨・乾物店を開いて細々と生計を立てていました。

音頭は、鷹栖尋常高等小学校(現在の砺波市立鷹栖小学校)の在学中から好成績を修め、事あるごとに先生から「近くの県立礪波中学校(現在の県立砺波高校)に高等科が設置される。入学したらどうか」と勧められます。しかし幼い頃から、商人だった父の姿を見て育った彼は、「学校よりも仕事の方が面白そうだ」と考えていました。そこで小学校を卒業した音頭は、昭和4年4月、母の妹が嫁いでいた金沢市の高橋金物店で奉公生活を始めます。入店からしばらくの間は、美術木製品の制作に携わりましたが、来客との応対ぶりを見ていた主人の高橋孝治は、彼の商才を生かすべきだと考え、以後は商人として育てることを決意します。
 

想像を絶する痛みに耐えて・・・

主人の高橋孝治は、音頭少年の姿に、自身の若い頃を重ね合わせていました。彼の将来性を期待した高橋は、自身が鋳物工場を創立し、失敗の後に立ち直ったという経験をよく話して聞かせました。これに触発された彼は、いよいよ昭和12年、高橋のバックアップを受けて丸鷹鋳造所を設立、商人として独立します。

ところが間もなく日支事変(日中戦争)が勃発し、音頭のもとにも充員召集の報せが届きます。彼はまさに断腸の思いで、事業の一切を中山鉄工所へ譲渡します。昭和15年に除隊されて帰国したものの、翌年再び応召した彼は、仏領インドシナ(現在のベトナム、カンボジア、ラオス)へ渡ります。

その戦場でのこと、突然音頭の頭上に多数の爆弾が降りかかってきます。気付いた時には、左腕がちぎれてブラブラとなり、右足も大腿骨がはみ出ていました。大量の出血で生死をさまよった末、左手と右足を切断する大手術を受け、想像を絶する激痛に耐えました。

無事に帰還を果たし、金沢へ戻ったのは昭和20年3月のことでした。それから二ヵ月後、福光の湯浅菊枝と結婚した彼は、再び商売の道を歩み始めました。
 

兄弟三人、力を合わせて

戦後間もなく、日本国内に「物価統制令」が施行され、物を自由に売買することができなくなりました。金属材料が極端に不足し、困り果てた音頭は、東京の闇市場へ買い出しに出かけ、トタン板やゴムベルトなどを仕入れ、金沢で売りさばいてその苦境を乗り越えました。この仕入れは、義足と杖に頼る身であった音頭自らが行いました。大きな荷物を背負って、長距離の列車に揺られることは、彼にとっては大変な重労働でした。

そうした地道な苦労を重ねた末、昭和24年に金属加工会社として株式会社音頭商会を設立、東京に本社を置いて全国展開を果たします。以後は、建築資材の製造や機械の販売などで業績を上げました。そして会社の経営にあたっては、兄と弟と3人が力を合わせ、それぞれが分社して独立し、現在に到っています。

さて音頭が創立に携わった会社は、現在も全国各地で活躍しています。音頭金属のほか、音金機化鋳造、大和環境分析センターは、音頭の長男・一正が継承。傍系会社として実弟・直次が創立した東洋製鉄、東洋建設があります。さらに実兄・政吉が創立した音頭金属(千葉県野田市)、音頭メクトなどもあります。音頭の経営方針は、こうして今も脈々と受け継がれています。
 

未完の自叙伝に思いを残して・・・

昭和59年1月2日、福野の恩光寺で音頭の弟・直次の妻・ムツ子の一周忌が行われました。これに参列していた東京在住の兄・政吉らは、当日体調不良で休養していた音頭に会うために、金沢の家に立ち寄ります。風邪気味で臥せっていた彼も、兄の来訪をとても喜び、正月の御馳走を片手に酒を酌み交わし、楽しいひと時を過ごしました。

それから床について間もなくのこと、音頭の隣で眠っていた妻・菊枝は、彼のただならぬ様子に驚き、目を覚まします。汗をにじませながら、床で正座する彼の姿を見て、「どうしたの!」と尋ねます。声を振り絞って、「汗が出た・・・」と答えた音頭は、間もなく意識を失います。そして67年の生涯を静かに閉じます。

ところで生前、音頭は周囲に「自叙伝を書いているんだ」と話していました。幼少時代の思い出をチラシの裏に走り書きしたものでしたが、それは愛郷・砺波の方言で書き綴られていました。また音頭は、檀那寺である恩光寺へ多額の寄付を続けました。そして長男・一正には常々、「今日の自分があるのは、親が貧乏してくだされたおかげ。墓の線香は決して絶やしてはならない!」と言い続け、先祖を敬うことの大切さを説き続けました。
 




この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部

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