REPORTピックアップレポート

【昭和天皇を心から敬愛し続けた男】並木 四郎

2025.11.01

平成17年12月23日、天皇陛下は72歳の誕生日を迎えられました。陛下は昭和34年4月10日にご結婚されましたが、当時宮内庁秘書課長としてこの式典の執行に尽力したのが、並木四郎です。並木は半生を宮内庁で過ごし、御陵牧場の移転や陵墓をめぐる問題点の整理を行い、退官後は家業の薬品会社の社長や富山県人事委員を歴任するなど、多くの人々のために身を捧げました。

 

ストライキの首謀者に担がれる!

並木四郎は大正3年(1914)1月15日、東礪波郡中野村新明(現在の砺波市新明)で、教員だった福井勇介・キヨの四男として生まれました。地元の小学校を卒業後、旧制礪波中学校(現在の県立砺波高校)に進学した彼は、漢文を教えていた吉波彦作を尊敬し、以来漢文の魅力に引き込まれていきました。

その四郎が中学5年生の時、英語の先生に対する抗議をきっかけに校内でストライキが起こり、彼もその一員に加わります。達筆だった並木は、その抗議文を書く役目を負いましたが、スト解散後に首謀者として厳しく処分され、内申書にも素行不良と評価されてしまいます。このため島根の旧制松江高校(現在の松江大学)への進学を目指すものの、不覚にも不合格、2年の浪人生活の末に、ようやく旧制新潟高校(現在の新潟大学)へ進学することになりました。その後は東京帝國大学法学部(現在の東京大学法学部)に入学し、大学を卒業した昭和15年、彼は新潟鉄工所に就職し、労務係として国家総動員法を幹部に講義するという仕事を担います。しかし、こうした経験を通じて、高文(行政官)合格者との待遇差に不満を感じた彼は、一念発起して本格的に高文(現在の国家Ⅰ種)の試験勉強に取り組みます。
 

結婚式の素案作りを手がける

その後間もなく、富山の薬種商・並木家の養子となり、新婚生活と高文試験の勉強に忙しい日々を送ります。苦学の末に合格を果たした並木は、昭和18年に宮内庁へ入り、以後は用度課長兼大膳課長、秘書課長などを歴任しました。

この秘書課長時代、まさにその時、昭和33年の秋、皇太子明仁親王殿下のご結婚が発表されました。お妃候補が誰かと取り立たされる中、並木の自宅へも多数の報道陣が押し寄せます。そして記者からは「お妃候補は『サ』行の中にあるか?」などといった、きわどい質問も浴びせられます。当然のことながら政治家はもとより、同僚や家族にすら、お妃候補の名前を口外することができないという苦しい時を過ごしました。並木は結婚式の素案作りの担当者として、三番町の自宅にこもり、昭和天皇ご結婚時の膨大な資料をつぶさに調べ上げ、国民感情になじむような素案を考えていきました。皇室会議の折も、担当者として同室で控え、御成婚当日は皇族の方々の賢所への先導を務めました。
 

成田開港と高松塚古墳をめぐって

昭和39年に皇室経済主管に任じられた並木は、皇太子ご夫妻のお住まいとなる新宮殿の築造を担当し、新時代の皇室のあり方を模索していました。

ちょうどその頃、政府は首都圏に新空港の建設計画を発表し、候補地として千葉県成田市三里塚にあった宮内庁の御陵牧場が選ばれました。並木は事務方として、御陵牧場の移転先を選定する中心的な役割を担い、自然豊かな栃木県へ移転することを決定します。 肩の荷を降ろす間もなくの昭和47年3月、奈良県明日香村にある高松塚古墳の調査中に、鮮やかに彩色された壁画が見つかり、日本中にブームが巻き起こります。歴史調査の観点から、この壁画を調査・発掘して公開すべきだという声が学界から挙がりますが、この古墳は歴代の皇族の墓(陵墓)であり、国民崇拝の対象であるという観点から、宮内庁が維持管理することになりました。当時、書陵部長だった並木は、衆議院文教委員会に招かれ、議員から激しく追及されます。もともと彼自身も古墳に興味を持っていましたが、陵墓を管轄する行政担当者の立場として、苦しい答弁を強いられました。
 

郷里に帰って・・・

30年近く単身赴任を続けた並木は、昭和49年に宮内庁を退職して富山へ戻り、家業の並木薬品の代表取締役と富山県人事委員会委員(昭和57年まで)をつとめました。その後、昭和59年の春に勲二等瑞宝章に叙せられました。昭和64年1月、昭和天皇の訃報に接した並木は、新聞記者の質問に「本当に長い間、辛抱されました。あらゆる面で尊敬でき、常に国民のことだけを考えられていました」と述べ、後は言葉になりませんでした。思い出として並木は、三番町の官舎の庭に、深紅の花が咲く海紅豆(ブラジル原産)を育てていましたが、退職する折、寒い富山では育たないだろうと思い、「皇居の吹上御苑にでも・・・」と献上しましたが、陛下は「宮内庁の生き字引」といわれた並木の労苦に報いるため、新宮殿の桐の間の軒先に植えるよう命じられました。昭和61年5月の園遊会で陛下にお会いした時、「並木、あの海紅豆は立派に育って、花が咲いたよ」と陛下から声を掛けられ、非常に感激しました。そしてこれが並木にとって、陛下の肉声をきいた最後となりました。

平成4年6月8日、並木は78年の生涯を静かに閉じました。葬儀・告別式は、並木薬品のあった富山問屋センターホールで行われ、天皇・皇后両陛下をはじめ、皇族の方々から多数の弔辞が寄せられました。

生前、母校の砺波高校へ、通学時に使用していた学生帽や明治天皇御愛用の燭台を寄贈し、亡くなってからは妻・フミの手によって自身の蔵書を多数寄贈するなど、学び舎への感謝の意を捧げる一方、幼き日々のとなみ野の情景の美しさを、繰り返し家族に語っていたそうです。
 



この記事は、「TSTチャンネルガイド」(現 おとなり)に2001年から2007年の間に70回にわたり連載された『となみ野ストーリー』の内容を掲載しています。なお、『となみ野ストーリー』は2007年8月に書籍としても発刊されています。

この記事を書いた人

おとなり編集部

この記事を読んだ人はこんな記事を見ています